映画『LISTEN リッスン』を、観た。
「15人の聾者が奏でる無音の58分間」と予告にあるこの映画は、聾の音楽を描いている。監督も出演者も聾者だ。
入場する際、希望者には耳栓が配られた。雑音を除いて無音の環境のなか映画を楽しんでもらえたらという意図があるらしい。
身体じゅうで何かを表現する人たちに魅了され、あっという間に流れるように動く指先に目を奪われた。その動きはとてもやわらかく、しなやかで、美しかった。指の先端まで表現したいという思いが詰まっているかのように、指先から何かがあふれでるかのように見えてくる。
手話も入っているのだろうが、それだけじゃない。そうじゃない部分の方が大きいのかも知れない。あふれる思いを表現せずにはいられない。そうはっきりと感じた。声はないのだが、確かに歌っているのだ。
パンフレットのなかで、宮城教育大学准教授松崎丈がこう記す。
人は歌い、踊って音楽を楽しむ。民族音楽学者の小泉文夫の話よると、文字を持たない民族はあるが、歌を歌わない民族はないという。なぜ人は歌い、踊るのだろうか。人と人が呼吸を合わせ、調子を合わせ、互いに歌い、踊ることで共鳴し、共感することができる。
コントラバス奏者・作曲者斎藤徹はかいている。
人間の身体の70%は水分だそうです。この水分が揺れる。揺れは伝わり、共振する。蛍の点滅がいつの間にか同期し、ばらばらに動いていたメトロノームがいつしか同期して同じように揺れるということは不思議ですが事実です。「揺れる」とは「混ざる」こととも言えます。沈殿せず反応をおこすこと、すなわち、変わること。これこそが「生きる」ことの原則なのかもしれません。美は乱調にあり。
映画を観終えたあと、身体のなかにリズムが残っていた。それは、いつも自分が外へと放っていないものの存在を知ったような不思議な感覚だった。
映画『LISTEN リッスン』パンフレットです。
「聾」とは、聴者の間では「聴覚障害」を指すのが一般的だが、耳が聞こえない人の間では「日本手話を主たる言語とする人々のアイデンティティ全般」を定義とする言葉として用いられている。映画『LISTEN リッスン』における聾は、後者の意味である。
6人で、音楽を奏でるシーンです。
お互いに面白がり真似し合っているうちに気がついたら「合奏」になったというものをベースにしている。意味を帯びた象徴としての手話から一旦意味を剥ぎ取り、手話裸体素材へと還元し、さらに別の文脈に接合してコラージュしている。
木々のざわめきのなかで、風を歌う少女。
「花」「散らばる」「夢」「咲く」の固有名詞と動詞を組み合わせたもの。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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