末娘が都会へ出ていって、もうすぐ4年になる。
この4年間、何度も訊かれた。
「淋しいでしょう?」
その答えは、ずっと変わらない。
「ぜんぜん」
子どもが大人になり巣立っていくのは、喜びだ。元気でやっていてくれれば、それでいい。それにたいていの場合質問には、こんな田舎でとか、たったひとりでとか、そういう意味合いのものが暗に含まれている。だから元気いっぱい否定する。子どもが巣立っていったこと。夫が東京で仕事をしていること。ひとりの時間が多いこと。それはすべて、わたしにとっては淋しさとはまったくかかわりのない事柄なのだ。
だけど、ほんとうのことを言えば、淋しくないわけじゃない。
人ってみんな、身体の芯の部分に淋しさを抱えているんだと思う。それはひとりで暮らしていても、誰かと暮らしてても、なくなることはないんじゃないかな。
産声をあげ生まれたときに吸い込んだ息の一部が、大人になっても残っていると聞いたことがある。その微量の空気のように、淋しさは身体のなかにずっと消えずに残っているように思う。
逢魔が時に、不意に息苦しくなるような。雲一つない空を見上げて、いきなり胸を突かれるような。日曜の朝目覚めて、胸の奥の温度が微かに下がっているのに気づいたような。硝子のコップの揺れる影に、湧き出してくる、 ――淋しさ。
誰といても何をしていても、田舎でも都会でも、晴れていても土砂降りでも、声を上げ笑っている瞬間にさえ、いつだって予告なく淋しさは襲ってくる。
若い頃には、息をひそめていれば通り過ぎるものかとも思ったが、歳を重ねてもそれは変わらない。産声をあげたときから、ずっとずっと生まれたときに吸い込んだ微量の空気とともに、胸の奥深くに沈んでいる。
逢魔が時の南アルプス連峰です。町の南側の集落周辺で。
へえ。紀貫之の歌が彫られた石碑があったんだ。小笠原と辺見というのは、明野町内の地名です。駒というのは当時の都、京都まで引いて運ばれたこの地で育った良質な馬のことだそうです。
ヒメシャラの枝にいたつぐみ。野鳥たちも、淋しいって思うときあるのかな。
さみしいと、決めつけられたような質問はうんざりしますね。
一人がいいときも、あるし、気楽な時もあるし、その時、その時いろいろですね。
誰でも寂しさは抱えている。
どんなに端から見て、恵まれているように見えても、あるのでしょうね。
私も、あんまりさみしいとは感じない方です。
やる気がでない時はたくさんありますけど(笑)
ぱすさん
こういう境遇だからとか、何かがあったからとかで「あの人、淋しいんじゃない?」という人、けっこういますよね。
でも、誰でも淋しさを抱えてるんだと思えば、そんなふうには単純には考えなくなるんじゃないかな。
わたしも!
やる気でない~ってだらだらしちゃうこと、よくあります(笑)
さえさんの書く文章はいつも深いけど、今日は特に深いな~
私も普段ひとりだから、「淋しくない?」ってよく言われるんですよ。
淋しさってひとりだからとか家族と一緒だからって関係ないんですよね。
小さい子供がかまってほしいように、大人だってかまってほしい。
淋しさのない人なんていないって思います。
それが生きてるってことですよね。
ユミさん
ユミさんも言われるんですね~子どもが巣立ったから淋しいって思う人ももちろんいると思うけど、そうじゃないんだよな~ってずっと思っていました。
ほんと。それが生きることなんですよね、きっと。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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