焼き豆腐を見ると、思い出すことがある。
十代の頃、スーパーの精肉コーナーでバイトしていたときのことだ。
店頭で見たことがある方もいらっしゃると思うが、冬には精肉コーナーに鍋セットを並べていた。大き目のトレーに肉と一緒に鍋の材料、白菜や春菊などを合わせてパックしたものである。野菜も切ってあるので、それさえあればお手軽に鍋ができる。週末などは、けっこう売れていた。
さて。そのなかに「すき焼きセット」もあった。何しろ肉屋である。牛肉のすき焼き用と白菜、春菊のほかに白滝や椎茸、そして焼き豆腐が入っていた。
その焼き豆腐だ。パートの女性が間違えて木綿豆腐を買ってきて入れてしまった。それを見た牛肉担当の男性が、顔を真っ赤にして怒り始めた。
「すき焼きに普通の豆腐入れて、どうするんだよ!」
そんなに怒るほどのことなのか? と近くで見ていて思ったが、ミスはミスだ。しかし、彼の怒りはとどまるところを知らず、彼女の髪形や化粧にまで云々し始めた。それがしつこく続き聞いているのも嫌になったころ、豚肉担当のいつもは温厚な青年が堪忍袋の緒が切れたとでもいうように、怒鳴った。
「いい加減にしろ! そんなに焼き豆腐がいいなら、その豆腐焼けばいいだろ」
そして、網を出して豆腐を焼き始めたのだ。
肉屋で勝手にそんなことをして、豆腐の鮮度が落ちたりしないのだろうか。わたしは気が気ではなかったが、焼きたて焼き豆腐のすき焼きセットは店頭に並び完売し、のちに豚肉担当の彼とパートの彼女が恋仲であることを知った。
普段怒ったことのない彼が怒鳴ったのにも驚いたが、焼き豆腐がないなら焼けばいい、その発想に驚いた。
豆腐は焼けば、焼き豆腐になる。焼き豆腐と豆腐は違うものではないのだ。
よく考えれば判ることなのに、考えもせず思い込みのままに捉えていることって、けっこうある。おにぎりは握るものだとばかり思っていたので、おにぎらずが話題になったときには、目から鱗が落ちた。
牛肉担当の彼も、それに驚いたのか何も言わず、ぷいと横を向き仕事の続きを始めたんだったよなあ。
週末、夫婦ふたりですき焼きをしました。春菊投入前。焼き豆腐入ってます。
野菜たっぷり、熟年夫婦バージョンの豚すき焼きです。
「たまには、シャンパンにする?」「いいね」
わたしは卵を溶かずにつける派。夫はガンガンに混ぜる派です。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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