東京に出た際、『ミュシャ展』に出かけた。
多部未華子ナビゲーターのNHKドキュメンタリー番組「華麗なるミュシャ 祖国への旅路 パリ・プラハ 二都物語」を見て、ぜひ観に行こうと足を運んだ。
ミュシャは、アールヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。
パリの大女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』のポスターを描き、一躍脚光を浴びる。ほぼ等身大のそのポスターは、茶と金をアクセントにやわらかい色合いの衣装をまとった女性が美しく描かれている。その後、サラ・ベルナールの舞台『椿姫』や『ハムレット』などのポスターを次々と手がけ、『四つの花』に代表される花、植物などの自然のモチーフ、幾何学な装飾模様をふんだんに取り入れた「ミュシャ様式」を確立していった。
その頃出版した図案やデザイン案を集めた2冊のスタイルブックは、ミュシャを追う芸術家たちのバイブルとなるが、ミュシャはパリを離れ、変貌を遂げていくこととなる。
きっかけはパリ万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画を制作したときのこと。他国の歴史を描きながら、故郷チェコの貧しさと花の都パリで華やさを俯瞰し、描くべきものは故郷にあると強く思ったという。スラヴ民族の神話や歴史を描いた20点の大作『スラヴ叙事詩』は、こうして描かれていった。
優しくやわらかいタッチ。淡い色合い。美しい人々やその衣装。ミュシャの絵は美しかった。しかし、描かれている絵の多くに、宗教の違いによる戦争、争い殺し合う人と人が描かれていた。
『グルンヴァルトの戦いの後』が、印象に残った。戦いに勝利した王の周りには、倒れた兵士や馬、散乱した武器などが描かれている。兵士を率いて勝利を納めた王は、勝ってなお途方に暮れるような面持ちだ。ミュシャは、戦争のこういったシーンを描くことで平和へと向かおうとしていたのだろう。
私の作品が目指してきたものは決して、人々の絆を破壊することではなく、むしろ彼らの間に橋を架けること、構築することであった。私たちは、人間が皆、よく知り合えば、よりたやすく理解し合い、互いに歩み寄ることができるという希望を抱かなければならないからだ。
ミュシャの言葉が、胸に落ちた。
6月5日までですが、行けるときに行っておかないと。
六本木『国立新美術館』2階で開催しています。
撮影OKの部屋が1室だけありました。『イヴァンチェの兄弟団学校』
『ロシアの農奴制廃止』ロシアを描いた作品は、この1枚だけ。
『スラヴ民族の賛歌』20枚目、ラストの作品です。
『聖アトス山』と『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い』
「ミュシャ」という名はフランス語で、チェコ語では「ムハ」と読むそうです。フランスでアールヌーヴォーのポスターで名が売れた故のフランス発音ですね。
ミュシャ展に行かれたのですね。
私も番組を見て、行きたいなあと、思いました。
ポスターの時代の絵は、見たことあるなあというタッチですよね。
クッキーの缶などに使われそうな絵。
優雅な雰囲気です。
戦いの大きな絵は全く、それとは違いますよね。
実際に目の前に立たれると、圧倒的でしょうね。
民衆の悲しみが、胸に突き刺さりそうです。
番組でミュシャの最期も、やるせなかったです。
撮影も、いいところがあったのですね。
それも画期的。解放してもいいと思いますよね。
私も見てみたいです。関西は来ないのかなあ…
ぱすさん
展覧会って、行きたいと思ったときにいかないと、まだまだ時間があるなんて思っていると見逃しちゃうんですよね~。
行ってよかったです。関西のほうでも開催されるといいですね。
ほんと、クッキーの缶に使われそうな、それだけでクッキー買っちゃいそうな絵ですよね。
戦いの絵には、圧倒されました。
ミュシャの最期・・・ゲシュタポに拘束されて尋問を受け、肺炎が悪化したんでしたね。最期まで自分を貫き通した人だったんですよね。
海外では撮影OKの美術館も多いですよね。解放することも大切だし、作品の保護の技術も進歩してるんでしょうね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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