映画『沈黙―サイレンス―』を、観た。
公開後すぐに観たのだが、なかなか文章にまとめられなかった。宗教を持たないわたしには、理解できない部分が多いように思えたのだ。
それが、映画を観てから時間が過ぎ、宗教ではない部分、ひとりの人間としての自分に響くものの大きさを感じるようになっていった。
舞台は、江戸時代初期。
日本で布教活動をしていた高名な宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧に屈し棄教し(信仰を捨て)たとの知らせがイエズス会のもとへ届く。弟子のロドリゴとガルペはどうしても信じることができず、日本へ向かう。手引きをしたのは、棄教しマカオに流れ着いたキチジローという男だった。長崎にたどり着いた彼らは、弾圧を逃れた隠れキリシタンの集団に出会うが、キリシタンたちは次々に処刑されていく。そしてガルペと離れ離れになったロドリゴは、疲労と空腹に耐え山中を逃げ回るも、ついには幕府に捕らえられてしまうのだった。
ロドリゴは、これも神の与えた試練だと考えつつも、大勢の信者たちが、なぜこんなにも苦しい思いをして殺されていくのか。それを見ている神は、なぜ何もせず、沈黙しているのか。なぜ。なぜ。なぜ。と自らに問うていく。
自分が信仰を捨てなければ、また信者が、人が殺される。これさえも、試練なのか。神はなぜ、沈黙したままなのか。ロドリゴは苦しみ抜き、決断する。
キチジローの役回りが、大きな鍵になっていた。
彼は、死にたくないと何度でも踏み絵をする弱さと、しかし、そんな自分を許してほしいとロドリゴに懺悔する弱さ、両方を併せ持っていた。
彼の存在に戸惑うロドリゴの気持ちなどは考えもせず、自分にだけ救いを求めようと躍起になるキチジロー。彼の姿に、じつは誰もが持っているであろう人間の弱い部分を見せられた気がした。
以下、棄教に転んだ人たちについて原作者遠藤周作が生前残した文章を引用した、パンフレット「歴史に黙殺された弱者の声」から。
彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家であるわたしは無関心ではいられなかった。ひたすら歪んだ指を合わせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。
歴史に名を遺した人物たちの陰で、沈黙している無数の弱き人々を思った。
キチジローの弱さが誰よりもリアリティがあるように思えたのは、わたし自身の心の弱さと近いものを感じたからかも知れない。
多彩なインタビューがぎっしり詰まった、贅沢なパンフレットでした。
拷問されるキリシタンたちを前にしたフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)。
ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)に、棄教し家族を裏切ったことを懺悔するキチジロー(窪塚洋介)。
隠れていたキリシタンたちの小屋で。まるで、宗教画のよう。
『沈黙』を読んだのは何年前でしょう。
遠藤周作のものは一時夢中で読んだことを思い出します。幼い時に洗礼を受けていたけれど、教会でもいたずらばかりして神父さんに叱られた、などと随想では例の語り口で面白おかしく語っていますが、終生、信仰と向き合って苦しんだことを作品から私なりに理解してきました。
「神はどうして何にも答えてくれないのか?」って言葉が残っています。
それが映画になったのですね。
家の本棚にもあると思います。文庫本になったとありましたがもう一度読み直したいです。
Yasukoさん
『沈黙』読まれたんですね。
わたしは読んでいなくて、映画になって初めて知りました。3時間という長い映画でしたが、ちっとも長く感じませんでした。それだけ最初から最後まで見入っていたんだと思います。
遠藤周作さんの幼少期のエピソード、ありがとうございます。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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