今年ラストの『地球の歩き方』北杜・山梨特派員ブログに、薪ストーブのことをかいた。薪を燃やす暮らしは、田舎暮らしならではの楽しみのひとつだ。
火で暖まる。そのシンプルさがとてもいいなあと思う。
木を切り出した過程も、薪割り機で割ったことも、それを積んだり運んだりしたことも、2年ほど寝かせ乾かしたことも、ちゃんと知っている。
水道の水は、水道管の工事や管理や、そのほか知らない過程を通ってやってくる。薪は電気や水道と違い、そんなすべてを知っているところを含め、とてもシンプルだ。
木を切り出すのも薪を割るのも夫の仕事だし、運んでいる絶対量も彼の方が数倍多いということも、しっかり見えている。
だから感謝して、わたしはわたしの仕事をがんばることができる。
昔の暮らしは、こうした生活に必要なことごとが見えていたのだろうか。
町内にある「梅の木遺跡」を取材したときに、縄文時代には「自分のもの」という感覚がなかったらしいと聞いた。
たとえば猪を狩っても、俺の猪という感覚にはならない。俺の家族の、というのもない。ここで暮らすみんなの食料という意識だったという。
それが、稲作を始め土地を所有するようになり、「自分のもの」となっていった。
もしかしたらその所有欲は、見えていたものが見えなくなった不安から来たのだろうかと分析してみる。不安は、いつしか欲へと変貌するのかも知れないと。
火のなかには、不安も欲も何もない。
ただ茫々と燃え、思うがままに熱を発している。
煙突くん、石造りの外国の煙突のようにはかっこよくはありませんが、大活躍してくれています。
薪を燃やす暮らしも、なんでもない日常になりつつあります。
でもやっぱり、炎を見るのっていいな。
そのためには、薪割り薪運び。
煙突掃除も大切になってきます。
☆『地球の歩き方』北杜・山梨特派員ブログ、更新しました。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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