文庫本は、大きめの文字で綴られている。表紙に平仮名で大きく「あひる」とかかれた異様さそのままに、妙ちくりんな小説だった。
主人公で語り手は〈わたし〉で、両親と3人暮らし。医療関係の仕事に就くべく試験勉強をしている。
あひるは、父がまだ働いていた頃の同僚からもらい受けた。名は、のりたま。由来はわからない。
あひるを飼うようになってから、庭に子どもたちが訪ねて来るようになる。父も母も、とりたてて喜びはしないものの、食卓ではやって来る子どもたちの話題ばかりとなる。10年前に弟が結婚して家を出てからは、食卓での話題など何もなかった。
両親に喜びの描写がないのは、心情を深く描くことなく淡々と事実だけを述べていくかき方だからかも知れない。
しばらくして、あひるは元気がなくなり父が病院に連れて行く。
入院していると知ると、子どもたちは来なくなる。
そして退院してきたのりたまは、ひとまわり小さくなっていた。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。
「どうしたの?」
父と母の声が揃った。二人とも、不安気な目でわたしを見ていた。
のりたまじゃない。という言葉が喉まで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?
でも、何も聞けなかった。父と母が緊張した様子で、わたしの次の言葉を待っているのがわかったからだ。
「べつにどうもしない」と、わたしは言った。
年老いた両親は、あひるによって突然もたらされたにぎわいを、最初は戸惑いつつ受け入れたのだが、しかしそれが日常となると、手放すことができないほどに心を傾けてしまっていた。誰が来る、ではなく誰かが来るという不安定な期待に揺れながら。
そしてのりたまはふたたび元気がなくなり、父は〈わたし〉が見ていない時間を選び、病院へと連れて行くのだった。
解説の西崎憲は、かいている。
あひるはおそらく親しみやすく印象的なその姿ゆえに、愛される存在であり、その姿ゆえに交換可能である。それを人間に置き換えると慄然とするのではないだろうか。
読み終えたときの例えようもない怖さは、たぶんここにある。
自分もどこかで交換可能な愛らしい存在を、求めてはいないだろうか。いや、わたし自身、交換可能な存在になってはいないだろうか。
第155回芥川賞候補作&河合隼雄物語賞受賞作だそうです。『おばあちゃんの家』『森の兄妹』と3編が収められています。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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