チェーンのドラッグストア店長の梨枝(28歳)は、母親とふたり暮らし。厳しい母に逆らうこともせずにきたのは、母親が赤ん坊だった弟を亡くし、それゆえ夫にも捨てられたかわいそうな女だったからだ。
しかし、タイトルの「蜘蛛を潰せない」のは、梨枝でも母親でもない。
ドラッグストアのパート男性、50歳を目前とする柳原だ。彼は蜘蛛を潰すことも、逃がすこともできなかった。
梨枝のなかには、蜘蛛の始末もつけられない背中の薄い男、という印象が残る。
冒頭の、章立てすれば1章に当たる、解説の山本文緒によれば「これだけで秀逸な短編小説」となる部分だ。
どんな人間か描くとき、蜘蛛を潰せないという描き方を選ぶというのが、すごい。この小説のなかでは重要な位置にはいるが端役ともいえる柳原の本質を「蜘蛛を潰せない」としたことで決定づけている。
蜘蛛を逃がし、ドラッグストアの駐車場から、梨枝は国道を眺めた。
今までに赴任した中ではこの店舗が一番好きだ。真夜中、この国道は時速百キロを超える急流をたたえた不可視の川になる。車道は身の丈をすっぽりと呑み込む深い川底で、ふっと足を踏み入れた瞬間、トラックと同じ速度で夜の彼方までさらわれていく気がする。
物語は、そこから始まる。
梨枝は、8つ年下のバイト三葉くんと恋に落ち、かわいそうな母親とその呪縛から、あるいは弱い自分、自信が持てない自分、みっともない自分、恥ずかしい自分、そしてかわいそうな自分から逃れようともがき、必死に生きていく。
梨枝や柳原のほか、梨枝を束縛する母親、鎮痛剤依存のバファリン女、兄との関係に悩む義姉雪ちゃん、若くて気持ちが強そうな三葉くんでさえ、どこか何かが足りない。
考えてみればみな、蜘蛛を潰せない人たちなのだ。
椎名林檎、大絶賛。
この作品は、体だけ歪(いびつ)に成人した我々のための手引き書である。
表紙絵は、ひとり暮らしを始めた梨枝の部屋から見える山茶花です。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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