東直子の連作短編集『とりつくしま』(ちくま文庫)を、読んだ。
「とりつくしま」という言葉に魅かれたのだ。「とりつく暇がない」と間違えて言う人が多く、そのたびにぴぴっとアンテナに引っかかる。「とりつく島がない」の「島」は頼りになる場所、よりどころという意味。相手の態度が冷たく、よりどころとなるきっかけもつかめないときに使う言葉だ。
ストーリーは、その言葉の本来の意味とは無関係。
死んだ人が「あれ?死んだんだ」とぼんやり認識したそのとき「とりつくしま係」が声をかける。とりつくしまが少しだけありますよと。そして少しの間「モノ」に憑りついて現世に舞い降り、会いたい人の傍で短い時間を過ごすのだ。
野球部のエースである息子を見守るためロージンバッグになる母。ジャングルジムになる男の子。恩師の扇子になる書道家の女性。図書館員の女性の名札になる老人。母親の補聴器になる娘。妻の日記になる夫、などなど11編。
以下、夫の恐竜型のマグカップになる若い妻を描く『トリケラトプス』から。
渉は、空になったあたしを、すぐにあたたかいお湯のシャワーで丁寧に洗ってくれた。渉の武骨な指が、あたしのすみずみにふれる。カップの底に力強く指先を押しあてて、しみついたコーヒーの色と匂いを、清めてくれている。
あたしは、流しの上の水切り棚の上にさかさまにやさしく置かれ、ぽたぽたと水滴を落とした。水切り棚の上からは、ダイニングテーブルも、その奥の部屋のリビングのソファーもよく見渡せた。
渉が、食事をする。ソファーでテレビを見ながらくつろぐ。独り住まいなので、声を聞くことはほとんどできなかったけれど、その横顔を堪能することができた。満足だった。
それに毎日、渉はあたしにふれてくれた。毎朝、マグカップでコーヒーを飲んだから。あたしがふれることができるのは、彼のくちびると指だけだったけれど、それを全身で受けとめられることが、なにより至福だった。
みな、誰かへの思いを抱えて、それ故に死後の世界から舞い戻ってくる。だが戻って来ても、動くこともしゃべることもできず、ただモノとなって大切な人を見守るだけ。余計に切なくなったり、知りたくないことまで知ってしまったりもする。しかしその思いは、どこまでも純粋だ。
生きているって、誰かへの思いを全身で抱えているってことなのかも知れない。
読み終えて、しみじみとそんなふうに考えた。
天国のイメージでしょうか。蝶のように羽ばたく人々の表紙絵です。
朗読会などで人気のある短編集だそうです。
「死んでしまったあと、モノになって大切な人の近くにいられるとしたら、あなたは何になりますか?」帯にかかれた言葉です。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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