芥川賞を受賞したばかりの小説である。
デビューして2作目『あひる』、3作目『星の子』でも候補となっていた。
タイトルの『むらさきのスカートの女』は、町内では知られた変わり者。
むらさきのスカートの女を一日に二回見ると良いことがあり、三回見ると不幸になるというジンクスがある。
都市伝説的な口裂け女と違うのは、彼女がしっかりとそこに居ることだ。
人混みをすり抜けるのが得意な彼女に、ぶつかろうとする者が現れる。小学生の子どもたちは、じゃんけんに負けた者が彼女の肩を叩くという遊びを始める。
「むらさきのスカートの女」は嫌悪の対象ではなく、町内のレジャーのひとつになっていた。
〈わたし〉は、彼女と友達になりたい。
だから彼女を追跡する(それを世間ではストーカーという)。自分と同じ職場に来るように仕向ける。面接に受かるようにシャンプーを渡そうとまでする。そしてそれは成功し、同じ職場、ホテルの清掃員として働くことになる。
〈わたし〉のストーカー度はどんどん増していき、逆に「むらさきのスカートの女」の普通度が際立ってくる。
「むらさきのスカートの女」は、上司と不倫だってできる。
都市伝説もどきにまでなったのに、それってかなり高度のリア充だよね?
〈わたし〉は、実力行使に出るのだが。
やがて、子どもたちが肩を叩く。
「黄色いカーディガンの女」つまりは〈わたし〉の肩を。
西加奈子の『さくら』を思い出した。
人気者だった〈兄ちゃん〉は、事故で顔も身体もあちこちが壊れ、歩くことも上手くしゃべることもできなくなった。彼はふと気づく。子どもの頃に、みなで怖がりながらもからかっていた変な男「フェラーリ」と同じ場所に自分が居ることを。
「お、俺ま、まさか、自分が、フェラーリみたい、に、小さい子ぉに、指差されて、さ、逃げられるように、な、なるなんか、思わんかった」
変な人と、そうじゃない人の境目は、どこにあるんだろう。
誰もが不意に、その境界線を越えてしまったことに気づく瞬間があるのではないだろうか。『さくら』の〈兄ちゃん〉ほどに決定的ではないにしろ、「黄色いカーディガンの女」ほど深く深く落ちていってはいないにしろ、小さな発言のひとつが起因となり噂の芽が伸びて絡んでいくように、わたしたちは誰もがいつ「変な人」になってもおかしくない場所にいる。
あなただって今、子どもたちに肩を叩かれるかも知れない。
そのとき、気づくのだ。自分が「むらさきのスカートの女」と化したことに。
境界線は、意外にもすぐそばに潜んでいるのだ。
スカートのような布の下に見える足。どちらが「むらさきのスカートの女」でどちらが「黄色いカーディガンの女」なのでしょうか。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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