引き続き、津村記久子を読んでいる。
今度は、長編だ。主人公は、3人いる。
ネゴロ(31歳)設計事務所支社の女子事務員。冷静沈着なしっかり者。
ヒロシ(11歳)学習塾に通う小学5年生。とび抜けた画才を持つ。
フカボリ(28歳)土質や水質の分析を扱う会社の下っ端サラリーマン。
この3人が交わる場所は、雑居ビル西棟4階廊下の片隅。事務机や椅子、スチール製の本棚が置き去りになって小部屋のようになったその場所は、物置き場と呼ばれている。
仕事中の息抜きや、会社帰り、塾の休み時間などを、彼らは物置き場で過ごしていた。まったく別々に、顔を合わせることもなく。
ところがある日、ネゴロは気づく。ここで過ごしているほかの誰かの存在に。
そして、彼女が置いてあったインクカートリッジを借りたことから、手紙と物々交換のやりとりが3人のあいだで緩く続くことになった。名を名乗ることもなく。誰だか探ろうともせず。
ネゴロは、塾に通う小学生を見ながら思う。
夢はなくていい。ときどきおいしいお茶が飲めてお菓子が食べられればそれで満足だけど、それすらも叶わなくさせる力が、一見平坦な生活の中に潜んでいるのかと思う。ときどき微かに、生きていることがいやになる。もっといろいろしておけばよかったのかしら、とも考える。
ヒロシは、モン・サン・ミッシェルを彫る。
消しゴムにカッターナイフを入れながら、塾の入っているあの建物はどう見えているのだろうか、とヒロシはふと考えた。別の場所から見たら、あそこは、おれが今彫っている建物のように、大きな、特別な物語を持っているように見えるのだろうか。
フカボリは、トンネルを歩く。
会社に自分を同化することができれば、ある程度は幸せなのかも知れないが、そんなふうになるほどには、フカボリは仕事に対して思い入れはなかったし、しかし、いい加減に仕事ができるほどには、不真面目になり切れなかった。中途半端だった。
しっかり者のネゴロも、大人びたヒロシも、ものごとを深く考えないフカボリも、みな生きにくさを抱えあがいている。そんな彼らをホッとさせてくれる空間が物置き場だったのだが。
女子トイレで赤ん坊が生まれ、幽霊が出たと噂が流れ、東棟は取り壊され、大雨でビルは孤立し、やがて西棟も取り壊しの話が持ち上がっていく。
そんな事件のさなかにいても、嫌みな上司にはむかつくし、雨のなか歩きまわれば早く家に帰って眠りたい。美味いカツ丼に力がわくし、家族に心配かけたくないと気も使う。
そんな人間のささやかな営みが、そこかしこから読みとれて、温かなものが胸に広がった。
カツ丼からトルコライスまでなんでも美味しい喫茶店のノリエさんや、おかっぱ眼鏡の男性ギャラリーオーナーアヤニさん、レアものも扱う文房具屋の女店主ミソノさんなど、脇役が魅力的なのも読んでいて楽しい。
もう引退してもいい年齢のノリエさんが、つぶやく。
死ぬまで働くつもりなんてなかったけど、でも、死ぬまで働きたいわあ。
表紙絵は、ネゴロ、ヒロシ、フカボリが、めいめい物置き場で過ごす様子が描かれています。タイトルは、舞台となった雑居ビルの西棟のこと。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。
管理人が承認するまで画面には反映されません。