久しぶりに『ホテルカクタス』を開いた。
江國香織のちょっとイレギュラーな――なにしろ登場人物は、帽子ときゅうりと数字の2だ――連作短編集である。
今回は「どろぼう」を紹介しようと思う。
ある秋の夜、ホテルカクタスにどろぼうが入った。
被害者は帽子の階の住人で、古いこげ茶色のマホガニー材の柱時計を盗まれた。住人たちはみな不安になったが、きゅうりだけは別だった。
「柱時計を盗っていくなんて、かわったどろぼうだなあ」
体内の水分のめぐりをよくするために、逆立ちしながらきゅうりが言いました。きゅうりは、アパートの中で唯一、あまり不安を感じていない住人でした。特別上等な鍵をつけていましたし、何か盗られたら、また買えばいいさと考えてもいました。
けれど、帽子と2は不安だった。盗られたくないものがあったからだ。
2は、気に入りの水色の毛布やいつもグレープフルーツジュースを飲む青い切子硝子のコップを、心から大切にしていた。
それを聞いたきゅうりは、逆立ちをやめました。
「気の毒に」
同情を込めて、2に言いました。
「別に気の毒じゃないだろう。こいつがどろぼうに入られたわけじゃないんだから」
帽子の言葉に、きゅうりはおどろいたように眉を上げました。
「気の毒だとも。盗られたくないものがそんなにあったら、心配で仕方がないじゃないか」
帽子は、きゅうりを少し格好いいなと思いつつ、だがこうも思う。
「しかし、盗られたくないものが一つもないというのも、気の毒といえば気の毒だな」
帽子は、カメたちのことを考えているのでした。大切な蔵書や骨董の刀、愛着のあるトランクや十二年物のウイスキーなどは、まああきらめがつきます。でもジャスミンやアリソン、ヨーコやミドリやバーバラは、甘え方も体型も、性質もしぐさも一匹ずつ特別な、帽子にすっかりなついているカメたちなのです。
この短編を読むたびに、自分をかえりみる。
盗られたくないものが自分にはあるだろうかと。
なくなると困るものに囲まれて暮らしているが、どうしてもあきらめがつかないものはあるのだろうか。
かと言ってきゅうりのように割り切ることはできないし、帽子や2のようにこれとはっきり口にすることもできない。
今大切だと思っているものが、明日も大切だとは限らない。そんなふうに自分を疑う癖がついてもいる。
本当に大切なものは、失くしてみないとわからないのかも知れない。
タコよん、久々の登場です。僕が盗られたら淋しいと思いますよ。あ、誰も盗らないしって今思いましたね?
言わずと知れたブックホルダー。お仕事中です。
あ、僕見えないよ~縁の下の力持ちなんです。
文庫本ですが、カラーイラストが豪華に入っていますね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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