井上荒野の連作短編集『リストランテ アモーレ』(ハルキ文庫)を読んだ。
本屋で発見したときには、わくわくした。井上荒野。短編集。料理小説。
「これこれ! こういうのが! 読みたかったの!」
本屋の店頭ではかろうじて声を出さずに済んだが、漠然と求めていたお宝を見つけた喜びが込み上げた。ああ、井上荒野はわたしのなかで「好きな作家」のひとりになったんだあと実感する。本屋で一冊の本を手に取りわなわな震えている人を見ると、手を握りしめ「よかったねえ!」と言ってあげたくなるのは、わたしだけではあるまい。そこは踏みとどまるけど。
目黒の小さなリストランテ「アモーレ」は、28歳のイケメンシェフ杏二と32歳の姉、偲(しのぶ)が切り盛りする小さな店だ。11話の短編にはそれぞれメニューがある。例えば8話目『本日のメニュー8』は、こんな具合。
ブッラータのカプレーゼ
野生アスパラガスのタリオリーニ
茄子のグラタン
豚と羊のロース肉の香草オーブン焼き
不毛な男
一夜を共にする女性には事欠かないが恋に落ちたことのない杏二。ただ一人を思い続ける偲。放浪癖のある二人の父。常連客の訳ありカップルや訳ありひとり客、杏二の師匠とその彼女、その他諸々の恋愛と格別な料理が「アモーレ」のテーブルにはいつでも並んでいる。以下『本日のメニュー8』から。
「偲も知ってる女なのか、あれ?」
「あれって言われてもどれだかわかんないわ。いっぱいいるんだもの。たまたま前の晩に一緒にいた娘でしょ」
父は肩をすくめて見せ、私は「めずらしい雰囲気」ということについてあらためて考えてみた。
「そういえば、最近ちょっとめずらしい感じではあるわね」
「女ができたんじゃないのか」
杏二の日頃の素行を考えれば、おかしな言い草には違いない。でもそれは、私もちらりとは考えていたことだった。
「とうとう年貢を納める気になったってことかしら」
「へっへっへ」
父が笑った。あまり笑わないひとなのでこれもまためずらしいことではある。爽快な笑いかたとは言えなかった。
「それは無理だな。あいつは絶対そういうことにはならないよ」
「そう?」
「あいつの土地に草は生えない」
「うまいこと言うわねえ」
私は感心した。父親が息子を論評する言葉としてはどうかと思ったけれども。
「たまには店に来てみたら?」
いつか言おう、と思っていたことがなぜか今口から出た。
「いやだよ」父は言下に断った。
「不毛な男と不毛な男は相性が悪いんだ」
読み終えて感じたのは、きっと誰もが持っているような種類の淋しさ。店の名前に「アモーレ」ってどうよ、と読む前には思っていたのだが、そこは井上荒野。きちんと落としどころを心得ている。愛って、ともすれば幸せと対になっているような気がしてしまうけれど、じつは淋しさと対になってるんだよなあと、胸の奥に眠っていた何かを揺り起こされたような気がしたのだった。
井上荒野の料理小説を読むのは、3冊目。これも短編集の『ベーコン』 『キャベツ炒めに捧ぐ』がおもしろかったからこそ手にとった文庫本でした。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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