柚木麻子の『伊藤くん AtoE』(幻冬舎文庫)を手にとったのは、ほかでもない。岡田将生くん主演で映画化されると知ったからだ。映画『ハルフウェイ』を観てから彼のファンで、映画『悪人』で嫌な奴を演じたときには、こいつはできると彼の演技に信頼を寄せた。
嫌な奴をやっているときでさえ、「岡田くん、かっこいいな♩」と余裕で眺められるのは、やはり好きなタイプの顔だからなんだろうな。
さて。この小説の主人公、伊藤くん。
彼は、嫌な奴ではない。正確に言えば、嫌な奴認定がもらえるほどの気概もない、といったところか。容姿端麗で口は達者だが、長所は、それだけ。
塾の講師をしているが、教え方は下手。シナリオライターを目指しているというが、シナリオをかき上げたことがない。金銭的な余裕のある親のすねをかじったまま20代になり、借りたお金は返さない。それなのに、どこからくるのか自信は過剰。無神経な言葉で相手を平気で傷つける。
そんな彼とかかわるのは、AからEまでの5人の女性だ。
A 〈島原智美 百貨店で国内ブランドのカバンを売る 27歳〉
合コンで出会ったときから伊藤くんに夢中だが、フラれつづけている。
伊藤君は出会った時から、エスカレーターにずっと乗っている気がする。他の誰もがすでにエスカレーターを降りて、それぞれの職場のあるフロアで働き始めているのに、伊藤君が下りる気配はまったくない。ひたすら高く高く上っていって、地べたで働く智美にはもう顔すら確認できない場所に伊藤君はいる。といっても、彼を眩しく思うとか、尊敬しているわけではない。伊藤君の言うこと、やることなすこと、あまりにも現実味がない。その生き方に結論は出ないからジャッジはできない。いわば殿上人だ。
B 〈野瀬修子 伊藤くんと同じ塾のバイト講師 27歳〉
務めていた美術館がつぶれ、就活しながらバイトをしているが何もかもうまくいかない。おまけに、好きでもない伊藤くんに追いかけられる。
「散々気を持たせといて、それどうなの? 俺が嫌いならはっきり言えばいいじゃん」
「嫌いだよ。こうやって電話されることすら迷惑」
間を置かずに言うと電話の向こうで息を呑む気配がした。
「はあ? なにそれ」
なんと、伊藤は泣いているみたいだ。はなをすする音が大きくした。
「きみ、自分のことどれほどのもんだと思ってるわけ? だいたい俺、好きだなんて一度も言ってないじゃない」
うわああああ――。修子の胃は早くもキリキリし始めた。
C 〈相田聡子 百貨店タルト店勤務 22歳〉
恋人を切らしたことのない聡子には、22年間恋人がいない親友、実希がいる。伊藤くんに片思いする実希の話を聞きながら、思いは複雑だ。
伊藤先輩と実希があれっきり抱き合っていないというのは、本当なのだろうか。聡子は疑ってしまう。もうとっくに寝ているのではないか。
大丈夫。二人の仲が進展したなら、実希は親友の聡子に必ず打ち明けてくれるはずだろう。いや、そう何度言い聞かせても効き目はない。
親友――。自分は、本当に実希の親友なのだろうか。本当の親友ならば、こんなに彼女の恋の行方が気になり、一挙一動を自分と比べて落ち込んだり、ほっとしたりするものなのだろうか。
D 〈神保実希 女子大教務課職員 22歳〉
親友の聡子と仲たがいし、実家に戻って就職した。伊藤くんを好きな気持ちをふっきろうと友人、クズケンに自分の処女をもらってくれと頼む。
――俺、処女の子ってダメなんだよな。
出来の悪い塾の教え子に暗記させるかのように、伊藤先輩はあの夜、繰り返し、繰り返し、そう言った。まるでとっくに死んでいる体を、なおもナイフでめった刺しするかのような残忍さで。酷薄な顔つきは口惜しいけれど素敵だった。眉間によせた皺が彫りの深い顔立ちのアクセントになって、彼をよりいっそう知性的に見せていた。
――神保が悪いっていうわけじゃない。処女なところが……、重たいところがダメなんだよ。
じゃあ、処女を捨てればちゃんとつきあってくれるんですか、と詰め寄ったら、
――そういう必死で余裕のないところも苦手なんだよなあ。
と、長いため息をついた後で、
――ちょっと考えてみる。待っててくれる?
E 〈矢崎莉桜(りお)落ち目のシナリオライター 29歳〉
シナリオで金が稼げなくなり、ゴミ屋敷となった事務所でシナリオライター講座の講師をしながら暮らす。
――伊藤君みたいな人ってある日、突然花開くんだよね。
――すごく本や映画に詳しいね。見所があるな。
――社会人になりながら執筆してプロを目指す人もいるけど、ほとんどがすぐ挫折しちゃうんだよ。毎日の忙しさの中に流されちゃうの。そんな中で、睡眠時間を削って、力を振り絞って書き続けられる人は本当に稀よ。本当の本当に稀よ。少なくとも、私には無理だな。
莉桜のせいで、彼は就職をあきらめたのだと思う。八年かけて、莉桜は伊藤を完成させた。恋をすることも、何かになることも、あきらめることさえまともにできない正真正銘のクズ。それが伊藤だ。
なぜにこんなにもダメダメな伊藤くんのことが、みんな気になるのだろう。
わたしは、顔が岡田くんだから彼のことを嫌いにならずに最後まで楽しく読み進めたのだが。しかし、読み終えて、いや、岡田くん効果だったわけじゃなかったのかもと、はたと気づいた。
伊藤くんの嫌なところ、弱いところ、ずるいところ、情けないところ、ダメなところ。それはみんな、自分のなかにあるものなのだ。
「伊藤くん、それはないでしょ」と思いつつも「まあ、気持ちはわかるけどさ」とどこかで思っている自分がいる。自分のなかのそういう部分を垣間見て、気にならない人がいるだろうか。彼女たちもみな、伊藤くんに気になる何かを見つけてしまったんじゃないのだろうか。
とりあえず映画が公開されたら、岡田くんの伊藤くん、観に行くか。
ポップな表紙の文庫本ですね。AtoZじゃないところがいいな。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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