『冷静と情熱のあいだ』(角川文庫)を、再読した。
1999年、新たな世紀を迎える直前に出版されたものだ。
辻仁成が男性、順正の視点から、江國香織が女性、あおいの視点から描いていった2冊に分かれたラブストーリーは、十年後にフィレンツェのドゥオモの上で会おうという約束と、青と赤のそれぞれの表紙のインパクトとで話題になり、映画にもなった。以下、Rosso(赤)から。
アンジェラの言葉が忘れられなかった。I was so in love with him.
(それはそれはぞっこんだったの)
お風呂あがり、私はバスタオルをまいただけの恰好でマーヴのオフィスに電話をかけた。
「ちょっと声がききたくなったの」
私が言うと、電話の向こうでマーヴが苦笑する気配がした。
「できるだけはやく帰るよ」
まるで振り子だ。
暗澹とした気持ちでそう思った。片方に揺れると、必ずもう片方におなじだけ揺れる。逃げるみたいに。振幅をとりもどそうとするみたいに。運動には終わりがない、と絶望的なことを教えてくれたのは、インターナショナルスクールの物理の先生だった。
以下、Blu(青)から。
ぼくもかつては、つまり大学生の頃、あおいをモデルによくデッサンをした。
あおいは唯一月光の中でだけ脱いだ。あおいの痩せっぽちだが西洋陶器の人形のような裸体は、セクシーというよりホッソリと愛らしく、ぼくにはとても美しく映った。とくにその足首は、骨が細く、余分な肉もなく、ぼくは僅かに弛んだふくらはぎを好んで描いた。
その時の条件は、それはぼくも裸になること。
もしも約束の日、ぼくの期待が破られたなら、あおいはその日はじめて、美術館の倉庫の裏に眠る修復不可能な彫刻のようになる。それだけを望んで、こうしてぼくはドゥオモを毎日見上げて過ごしているのかもしれない。
十年後に会うという約束をしたまま別れ、心の奥深くでは相手を求めつつ、すれ違っていく恋人たち。ロマンチックな部分に、当時読んだ頃には魅かれていたように思う。しかしそれから17年経ち、自分のなかの意識が変わっていることに気づいた。十年のすれ違い。それはよくあることなのではないかと感じたのだ。
ともに暮らし、たがいを思いながらでも、あることなのではないかと。
歯車は食い違い、相手の軋む音が自分の軋む音にかき消され、ぶつかり合えば火花を散らし、どうにもできずだたすれ違う日々。
それが夫婦でも、親子でも、兄弟でも、ままあることなのではないか。
わたしも、夫とすれ違う日々にこの小説を読んだのだったと思い出す。十年前、そんな思いを抱え、ふたりイタリアを旅してフィレンツェのドゥオモに上った。そのことがどう作用したのかは、今思い返してみても判らない。現実のすれ違いは、小説のように決定的な出来事でハッピーエンドになったりはしないのだ。
ふたりのあいだにあったすれ違いの空気は、風邪が治るときのようにいつしか消えていったように思う。確かなことは、歩み寄ろうとする気持ちがなければ、すれ違ったままだったのだろうということだけだ。
読んだのは文庫版ですが、写真は新刊本です。
夢中になって読んだのを、なつかしく思い出します。
ミラノのサンタマリア・デッレ・グラツィエ教会です。
あおいが、たびたびひとりの時間をすごしていた教会の中庭です。
4本のモクレンが、春には白い花を咲かせるそうです。
そしてあおいが好きだった4匹の蛙も、ちゃんとたたずんでいました。
教会の天井です。まるで宇宙を見上げているようです。
結婚30年の真珠婚を迎え、夫婦でイタリアを旅しています。
明日から、イタリア旅日記、スタートします。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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