森博嗣の連作短編集『少し変わった子あります』(文春文庫)を、読んだ。
本屋の店頭で手にとった理由は、森博嗣なのに薄い文庫本だったからだ。
森博嗣と言えば、分厚い本。しかも長いシリーズ。『すべてがFになる』『スカイクロラ』などの印象が強く、気軽には手にとれない。
この文庫は、わたしのような森博嗣初心者が、その洗練された文章と軽いミステリーを楽しむのには打ってつけの連作短編たちだった。
主人公は、大学教授の小山。失踪した後輩から訊いた「少し変わった店」に足を運ぶようになる。店といっても店舗がない。電話をかけると迎えの車が来て店に案内するのだが、場所はそのたびに違っている。料理も和風だったり洋風だったりエスニックだったり。そしてともに食事をする女性もまた、一期一会。そこでしか、一度だけしか会うことができないのだ。小山は回数を重ねるごとに、自分のなかの孤独が色濃くなるのを感じていく。以下本文から。
夜の雨は、孤独を確認するにはうってつけのシステムである。まるで雑踏の中にいるようなざわめきに取り囲まれ、しかし自分の周囲、つまり室内には夜も雨もない。その外側では、蠢きの微動がはてしなく続く。小刻みな揺らぎが重なり集合して、全体では酷く平坦になる音。ホワイトノイズ。そんな白い音に取り囲まれているのである。夜と雨で混合されたマテリアルで固められたシールドは、分厚い断熱材のように作用して一つの孤独が覚めないように優しく包んでくれる。
まるで胎内のように。
私一人がここにいて、ここからどの方向へも抜け出すことができない。魔法瓶の中に入れられた自分を想像することができる。魔法瓶の内側は鏡のように中身を歪めて映し出すだろう。だが歪んでいるのは現実の方かもしれないではないか。どちらが正しい姿なのか判断ができない状態、すなわち単一の視点、それが孤独というものの中心である。その中心からは、どちらを見ても、歪んだ自分しか見えない。なにをどちらへ考えても、結局は自分のところへくるりと捩じれて跳ね返ってくる。そういう反射現象が、孤独というものの機能であって、正直に言えば、私はそれが嫌いではない。否、愛していると言っても良いくらいだ。
何と美しい自己分析。小山教授は、孤独を愛していたのである。
孤独、という言葉で思い出すのは、独り暮らしをしていた22歳の頃のことだ。6畳一間のアパートで何も予定が入っていない休日にも、ふた通りあった。
ああ、今日は何をしようとわくわく考えるときと、何もかもがおもしろく感じられなくて、ただただ孤独と向き合うときと。
そう考えると、わたしは今、孤独とは離れた場所にいるのかも知れない。
表紙絵も、少し変わった子、という感じがします。
この薄さで森博嗣は画期的。『すべてがFになる』は4冊分くらいの厚さです。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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