志乃ちゃんは、自分の名前が言えない。
母音から発音する言葉が言いづらい、というより言葉にならないのだ。それなのに、彼女の名前は大島志乃。母音ダブルで始まる厄介な名に生まれた。
押見修造の漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(太田出版)は、志乃ちゃんが高校に入学するところから始まる。
当然のように自己紹介が待っているが、言おうと覚悟していた自分の名前が言えず、変な子、変わった子、ダメな子の烙印が押されてしまう。
担任教師は、何も考えずに平気で志乃ちゃんを傷つける大人代表だ。
「名前くらい言えるようになろう? ね? がんばって!」
それが言えないから苦しんでいるのに「名前くらい」と言い放つ。
また母親は、腫物に触るように扱い心療内科に誘うだけ。話を聞こうとか気持ちを理解しようとか、そういうプロセスを完全にすっ飛ばしている。
そんな志乃ちゃんが出会ったのが、加代だ。音楽が好きで、ギターを弾く一匹狼的な雰囲気を持つ彼女は、しかし酷過ぎる音痴なのだった。
言いたい言葉が言えない志乃ちゃんと、歌いたい歌が歌えない加代。
歌ならつっかえずに歌える志乃ちゃんと加代は、ふたりで文化祭に出ようと練習を始めるのだが。
この漫画のなかには、吃音という言葉は出てこない。ほかに吃音の子も登場しないし、吃音に対してのアドバイスなどもない。
ただ志乃ちゃんは、母音から始まる言葉を言うことができないのだ。
しかし悩みながら、それでも口を閉ざしてしまったり自分の殻に閉じこもったりせず、なんとかしたいとあがく志乃ちゃんは、とても素敵な女の子だとわたしは思う。加代とのすれ違いも青春ならではで、志乃ちゃんは無論真剣なのだが、見ていて微笑ましかった。ラストシーンで大人になった志乃ちゃんから見ても、たぶん同じ感想を持つだろう。
みんなが普通にできる「自分の名前を言う」ことが、志乃ちゃんはできない。だが世の中には、みんなが普通にできることができない人は大勢いる。
例えばわたしは、忘れっぽく、思いこみが激しく、整理整頓ができない。
そんなの多かれ少なかれ、みんなそうだよ、と言われるような症状だが、ADHDという名がつくとどうだろう。わたしはたぶんボーダーだがADHD寄りの脳をしている。きのうも運転中に信号待ちで、暑いなあと思いフロントガラスの大きさのサンシェードを広げようとした。だが当然、サンシェードをフロントガラスに貼って運転できるわけがない。ひとつのことに気をとられると、全体や今置かれている状況がすぐに見えなくなるのが、わたしの症状の特徴だ。
個人的には、ADHDという言葉がごく自然に語られるようになり、とても楽になった。自分が悪いわけじゃないって思えるようになったし、持っている能力でできるだけのことをして生きていくしかないのだと割り切れた。
みんなが普通にできることなのに自分はできないことが、ない人っているのかな? いるんだろうな、きっと。
パソコン版kindleで購入して、読みました。
映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、公開中。観たいな~♩ って、やっぱ山梨ではやらないんだよね(涙)
高校に入学し、自己紹介で名前が言えないシーン。
だけど、歌はつっかえずに歌える志乃ちゃん。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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