短編集『くちなし』では、ファンタジーより現実世界の物語の方が好きだったが、この長編はファンタジーであっても、心根を描いた部分がリアルで、あるいは現実世界よりもずっと現実に近いかも知れず、痺れた。
作家、埜渡徹也(のわたりてつや)は、若い妻、琉生(るい)との愛の交歓を綴った中編『涙(るい)』で脚光を浴びた。
飾り気のないショーツとブラジャーを脱ぎ捨てた彼女の肉体は、子供の頃に炎天下の畑でもいだ小さなピーマンを思い出させた。浅い影をまとってやんわりとくびれ、ところどころを隆起させたその無邪気な物体は、うっすらと清らかに光っていた。
『涙』の一節だ。
小説は、琉生が種を食べるシーンから始まる。
隣りの空き地に蒔こうと買ったボールいっぱいの種を黙々と食べ、水を飲み、身体じゅうから発芽した。
琉生は、自分をモデルに官能的とも言える小説を夫がかいたことに納得してはいなかった。さらに夫は不倫もしている。
何かが大きくくい違っている。その思いは、琉生のなかにとどまらず、身体じゅうから芽吹き、勢いよく枝を伸ばし、うっそうと茂る森になっていく。森になり、琉生はようやく気づいた。虐げられていたことに。
埜渡担当の編集者、瀬木口は、森になった琉生を見ていられず風俗店で憂さを晴らす日々が続き、妻は子どもを連れて出ていった。
帰る家を間違えてしまった気分だ。通りを一つ、駅を一つずらせば、そこにはこれまでと変わらない自分の家がある。明子がぼやきながらテーブルで仕事をしていて、可愛い子供たちは眠っていて、冷蔵庫には自分のためのビールが冷やされている。そんな本当の、正しい家が、どこかで自分を待っている気がした。
妻の発芽を初めて目にした埜渡も、こんな気分になったのだろうか。
後任の女性編集者、白崎は、夫の闇を見つめる。
男は物心ついたときからずーっと競ってるんだ。ずーっと、どうやって周りの人間に勝つか、有能さを示してのし上がるか、考えてる。負けたらそれで終わり、自分がダメな奴だって思うし、周りからもそう思われて生きる苦しさを引き受けなきゃならない。
だから、埜渡は勝つために妻を利用した。当然のことだと。
埜渡は、考えていた。
女というのは錘なのだ。口を開けばいつも正しさしかないことを言って、人生だの生活だの愛情だの義務だの、人を簡単に殴り殺せそうな重苦しい概念を当然のように押しつけてくる。
後半、埜渡は森に足を踏み入れ、琉生と対峙する。
自分のずるさという棘に刺され、弱さという枝に絡まれながら、琉生のなかへとわけ入っていく。
こんなにカラフルな明るい森になら、なってもいいかも?
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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