「ちょうど1年前に、買ってる」
文庫本に挟まれた本屋のレシートを見つけ、夫が言った。『さよなら妖精』は、米澤穂信の長編ミステリー。一度開いたが読まずに閉じ、1年が経過した積読本だ。それを夫が開いたのは、病院の待ち時間にと手渡した短編集『真実の10メートル手前』がおもしろかったからにほかならない。
いまだ『さよなら妖精』は未読であるが、同じ主人公、フリージャーナリストの太刀洗万智(たちあらいまち)が登場するのだから、そのうち開くことになるだろう。6編収められた短編集は、読み始めたらすぐに惹きこまれページをめくる指をとめられないほど、するすると読みやすかった。
『真実の10メートル手前』
倒産したベンチャー企業の若き社長とその妹が失踪した。太刀洗万智はその妹を追う。
『正義感』
駅で転落死した男性は、自殺なのか事故なのか事件なのか。
『恋累心中(こいがさねしんじゅう)』
渓谷に転落死した高校生男女の心中事件には、疑問点がいくつかあった。
『名を刻む死』
孤独死した老人と第一発見者の少年を描く。
『ナイフを失われた思い出の中に』
ナイフでめった刺しにされた2歳の幼女。逮捕されたのは18歳の叔父で彼は姪を可愛がっていた。
『綱渡りの成功例』
水害で救出された老夫婦が隠していたこととは。
表題作から始まるこの短編が読みやすかった要因のひとつには、土地勘がある。
名古屋から甲府に向かう特急しなのとあずさは乗り慣れた鉄道であり、舞台となった甲府周辺も詳しくはなくとも知らないわけではない。冬にスタッドレスタイヤを履くのが常識だということも、名物のほうとうも知っている。最初の推理さえ難なくクリアできるだけの知識はあった。
しかし太刀洗万智は、そこからがすごい。
彼女の事件を真正面からとらえようとする姿勢は揺らぎない。刑事や探偵が見落とした細部に目を向け事件の核心を炙りだしていく。
その姿は、東野圭吾「彼は解く事件の裏側を」と謳われるシリーズの刑事〈加賀恭一郎〉や、若竹七海の、事件にのめり込み過ぎ危ない目にばかり遭っている「仕事はできるが不運すぎる女探偵シリーズ」と名のついた〈葉村晶〉を思い起こさせる。
一様にクールな彼ら3人の共通の魅力は、しかし優しさだ。人間を愛するがゆえに真実を突きとめずにはいられない。ジャーナリストである太刀洗万智は、記事にすることで傷つく人がいることは無論承知で、その葛藤には常に苦しめられながら事件と向き合っていく。
そしてこの小説の魅力は、太刀洗万智は決して読者を裏切らないという安定感にもある。ラストにはきちんと事件の本質を見せ、渦巻く荒れた海のような感情を残して立ち去るのだ。
太刀洗万智、かっこいい! さて『さよなら妖精』は読めるのでしょうか。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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