大好きな小説なのに、これまで断片的にしか紹介してこなかった川上弘美の連作短編集『神様』(中公文庫)のことをかこうと思う。
デビュー作である表題作を含めた9編が収められている。主人公は、都会でひとり暮らす女性だ。彼女は、不思議な生き物たちと出会っていく。巻頭の「神様」とラストの「草上の昼食」には、熊が登場する。以下「神様」から。
くまは、雄の成熟したくまで、だからとても大きい。三つ隣りの305号室に、つい最近越してきた。ちかごろの引っ越しにしては珍しく、引っ越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、葉書を十枚ずつ渡してまわっていた。ずいぶんな気の使いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう。
主人公は、マンションの熊と同じ階で暮らしている。くまに誘われるままに川原に散歩に出かけるような気のいいところがある、だがそれだけに世の中にはうまく馴染めないような女性だ。以下『草上の昼食』から。
でも、どうして。
訊ねると、くまはてのひらをわたしの背から離し、足を投げ出した姿勢のままでしばらく沈黙した。蟻が何匹かくまの足を這いのぼっていたが、くまは気がついていないようだった。気づかないまま、何か考えこんでいる。雲が少し切れ、再び日が射しはじめた。
「結局馴染みきれなかったんでしょう」目を細めて、くまは答えた。
馴染んでいたように思っていたけれど。言おうとしたが、言えなかった。ほんの少しなめたワインのせいだろうか、クマの息は荒いだけでなく熱くなっている。
彼女は、すっかり街の暮らしに馴染んでいたように見えていた熊が故郷へ帰るのを見送ることになる。自分こそ馴染めないのだと感じつつ街で暮らし続けていく彼女に、わたしはずっと自分を見ていた。
人間のなかで暮らしていくのってなんてしんどいんだろうと、不意に違和感を覚えてしまい居たたまれなくなったときに開く小説である。
「夏休み」には、梨もぎを手伝った梨畑のお化けのようなものたちが。
「花野」には、5年前に死んだ叔父が。
「河童玉」には、セックスがうまくいかないと悩む河童の男女が。
「クリスマス」には、ウテナさんに預かった壺のなかからコスミスミコが。
「星の光は昔の光」には、304号室の小学生えび男くんが。
「春立つ」には、小さな呑み屋「猫屋」のおばあさんが。
「離さない」には、エノモトさんがバスタブに囲う人魚が、登場する。
彼女は、その誰とでもできうる限り誠実に接していく。そんなふうに向き合わずともいいものに向き合ってしまえばしまうほど、人の世には馴染めなくなっていくのだ。以下『草上の昼食』から。
「熊の神様はね、熊に似たものですよ」
くまは少しずつ目を閉じながら答えた。なるほど。
「人の神様は人に似たものでしょう」
そうね。
「人と熊は違うものなんですね」
目を閉じきると、くまはそっと言った。違うのね、きっと。くまの吠える声を思い出しながら、わたしもそっと言った。
「故郷に帰ったら、手紙書きます」
くまはやわらかく目を閉じたまま、わたしの背をぽんぽんと叩いた。
いや。向き合わずともいいものなど、ないのかも知れない。そう思いたくてわたしは、この小説を開くのかも知れない。
シンプルすぎる表紙です。なかはずいぶん陽に焼けていました。
「あ、『神様』で熊が持ってきたバレバレスコ!」と夫に言うと「バルバレスコだよ」と冷たい目で言われました(笑)
熊が草上に用意した昼食は、鮭のソテーオランデーズソーズかけ、茄子とズッキーニのフライ、いんげんのアンチョビ和え、赤ピーマンのロースト、ニョッキ、ペンネのカリフラワーソース、苺のバルサミコ酢かけ、ラム酒のケーキ、オープンアップルパイ。そしてバルバレスコでした。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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