詩を読むとき、以前詩をかく人に聞いたことを思い出す。
「手放した詩は、読者のもの」
本に収められている詩も、ネットで読まれている詩も、かいた人の手を離れてしまえば、それはもう読んだ人のものになるという。
それを聞いてから、深読みはせず、感じたまま心の部屋にそっと置くような読み方をしたいと思ってきた。雪が解けるように、そこから消えていくまで置いておくような。
しかし茨木のり子の詩集は、そうはさせてくれなかった。
いくらしんとした気持ちで読もうとしても、かき手の切なさが、憤りが、発見が、強さが、しなやかさが、まっすぐな眼差しが、優しさが、振動となり身体を駆け抜けてゆく。
一編だけ、引用したい。
知命
他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う
他のひとがやってきては
こんがらがった糸の束
なんとかしてよ と言う
鋏で切れいと進言するが
肯じない
仕方なく手伝う もそもそと
生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな
まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて
ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ
一人で処理してきたと思っている
わたくしのいくつかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで
表題作「落ちこぼれ」ほか、「わたしが一番綺麗だったとき」「もっと強く」「汲む」「自分の感受性くらい」「倚りかからず」など。
はたこうしろうの表紙絵、好きです。
裏表紙。息子が2歳の頃青い長靴が好きで、それしか履かなかったことを思い出しました。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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