まず、タイトルに魅かれた。
レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(早川書房)を連想したからだ。
しかしこの小説は、認知症を患う70代の東昇平と、その家族の物語だった。
カリフォルニアで暮らす孫は、校長にアメリカではこう呼ぶのだと教わる。
「十年か。長いね。ロング・グッドバイだね」
「なに?」
「『長いお別れ』と呼ぶんだよ。その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていくから」
8章から成るこの小説は、かつて中学の校長だった昇平が認知症と診断され3年ほど経った頃から始まる。妻の曜子は、徘徊を始めた夫の様子を3人の娘たちに理解してほしくて、呼び寄せる。
長女茉莉は、夫の転勤でカリフォルニアで暮らしていて、高校生と小学生の息子が二人いる。次女菜奈は、夫と小学生の息子とわりと近くに住んでいる。三女芙美は、独身でフリーのフードコーディネーター、忙しいが口癖だ。
久しぶりに集まった女たちのにぎやかさとは裏腹な、夜の遊園地、子どもだけでメリーゴーランドに乗ろうとした見知らぬ小さな姉妹とのシーンが印象的だ。
「メリーゴーランドにいっしょに乗ってくれる?」
うむ、と昇平はうなずいて、小さな女の子の差し出した手を握った。
回転木馬の係のアルバイト男性は、また来たのかよ、と不審そうにしたが、
「おじいちゃんといっしょなの」
優希が言うのに、
「そうだよ。おじいちゃんだ」
と、老人がうなずいたので、肩をすくめてゲートを開けた。
当然だが、昇平の症状は進行していく。家にいても「帰る」と言って外へ出ていき、言葉も次第に意味不明になり、身体だって衰えていく。
妻曜子は献身的に介護し、娘たちもそれぞれできる限りのことをしようとする。
だが、それだけではない日常がひとりひとりにある。妻にも、娘たちにも、その夫や子どもたちにも、昇平とのつながり以前に、自分の暮らしがある。
解説の川本三郎が、かいていた。
歌人、小島ゆかりに「徘徊の父、就活の娘あり それはともかく空豆をむく」という歌がある。父親が認知症になったとしても、東家には「それはともかく空豆をむく」日常がある。健康な人間は、日々、それをこなしてゆかなければならない。
主人公は東昇平だが、この小説は、その空豆をむく人たちを描いている。
言葉を失くした昇平と、しかし妻は最期までコミュニケーションを保っていた。
この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。ええ、夫はわたしのことを忘れてしまいましたとも。で、それが何か?
映画化されるんですね。まだ映画のホームページはないみたいです。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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