際立つのは、リアルで美しいセックス描写だ。
節の目立つ学者のような指先が、耳たぶから首の付け根をすっと下りてきた。絹で撫でられているかのように軽やかできめ細やかな感触が、産毛まで立ち上がらせ、毛穴を隅々まで開いていくようだった。頭のネジが、一本、また一本と外れていく。終わらないと帰れない、と壊れかけた頭のなかでくり返す。だから、帰るために、しなきゃ。
島本理生の『Red』(中公文庫)は、30歳の塔子(とうこ)が、主人公。
イケメンで高収入の夫、真(しん)と可愛い2歳の娘、翠(みどり)。夫の両親との同居も義母がさっぱりした性格のせいか大きな問題はない。塔子の悩みは、妊娠した途端にセックスレスになった夫がもう3年も求めてこないこと。自分には女性としての魅力がないのかと心が渇いていく日々だった。
そんなとき、二十歳の頃につきあっていたもと恋人、鞍田と再会した。そして鞍田の紹介で同じ会社で働き始めると、これまで気づかないふりをしていた結婚生活への不満や疑問が、くっきりと浮かび上がっていくのだった。
例えば、家事育児にまったく協力しない夫は、塔子が宅配便を受け取っているあいだに、悪戯してガラスを落とし娘が怪我したことを責める。
普通、小さい子供から目を離したりしないだろう。
普通って、と塔子は絶句する。一分一秒だって子供から目を離せない緊張感に耐えるということがどういうことなのか、彼はまったく理解しようとはしない。
また例えば、塔子が働きたいと言ったときには、家計のことでも。
「あなたに迷惑かけずに自分のものは自分で買えるようになるのは、ちょっと嬉しいと思っただけで」
それでおさまると思ったのに、夫が驚いたように
「え? 家にお金入れるんじゃないの?」
と訊き返したので、びっくりして神経が逆立った。
「もちろん入れるけど、ただ、ちょっとだけお小遣いがあったら嬉しいと思っただけで」
と言い返したら、夫は腑に落ちない口調で
「食費とか雑費とか、ちゃんと渡してるだろう」
といったので、またびっくりした。
塔子は、彼が稼いだお金を、自分が自由に使うという感覚にはなれない。男性にはどう映るかわからないが、この感覚は共感できる。健全だとも言える。
また例えば、義母とその姉と5人での家族旅行の計画を勝手に立てられて。
本当になんの他意も疑問もなく楽し気にしている夫を見て、しみじみと思った。この人は私が本気で楽しめると信じているのだ。悪気はなくても当りの強い義理の伯母と姑と旅行して。
また例えば、夫が二人目と口にしたとき。
どうして夫がその台詞を簡単に口にできるのだろう。二人目って。子供って。セックスしないと、できないんじゃなかったっけ。
夫の真には、悪意はまるでない。ただセックスが苦手で、鈍感なだけなのだ。しかし不満と疑問は次第に膨らみ、塔子は日々追い詰められていくのだった。
学生時代からの親友、矢沢は言う。
たまたま女に生まれて、出産する機能が勝手にくっ付いてて。それだけで選択も責任も引き受けなきゃいけなくて、産んだら産んだで、母親なんだからちゃんとしろ、とか、自分の時間なんて犠牲にしろとか、おかしくない?
会社の男性社員で、遊び人の小鷹は、塔子の夫の行動に腹を立てる。
結婚って、そういうもんじゃないでしょう? 塔子ちゃんのことなんて全然尊重してないじゃん。
塔子は、理性では鞍田を拒みつつも、彼との快楽に身をゆだねていく。いったい何が欲しいのだろうと、自らに問いかけながら。
人として、女として、認められたい。愛されたい。わかってほしい。そんな女性の、妻の、母親の叫びがそこここから聞こえてきた。
タイトル『Red』について、「『赤』というと、官能的で危険な感じ。タイトルはそんなイメージの総称」と著者インタビューで語られていました。自らも母親となった島本理生31歳のときの作品。島清恋愛文学賞受賞作。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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