先日読んだばかりの伊坂幸太郎『AXアックス』角川書店)の主人公、兜(かぶと)は、最強の殺し屋なのだが恐妻家だった。
「恐妻家」ただただ妻が怖い夫なんて、実際に存在するものなのか? 小説を読み終えても、ファンタジーの世界の産物なのか、実在するものなのか、判断がつかなかった。幽霊にもお目にかかったことがないが、恐妻家も然りである。
兜はたとえば、こんなふうに考える。
家に帰ると、克己が居間にいてカップラーメンを食べていた。育ちざかりの高校生なのだから、もっと栄養のあるものを食べろ。と兜は言わない。自分が同じ歳の頃は、もっといい加減な食生活で、というよりも生活自体が爛れきっていたため、言う資格がないという思いだったが、それ以上に「カップラーメンなど食べるな」と否定すれば、それはすなわち妻に「ちゃんとした料理を作れ」とメッセージを発していると受け止められる可能性がある。妻に限らず女性は、いや人間は、と言うべきかもしれないが、とかく「裏メッセージ」に敏感だ。
そこまで考えてひと言ひと言を発しているにもかかわらず、妻は、表しかないメッセージに裏を見つける天才であり、兜はたびたび機嫌を損ねてしまう。
兜を殺せる奴はいないというほど身体能力に秀でた殺し屋である彼は、力では、当然妻より数倍も強いはずだ。普通に考えて、そこまでではなくとも男性の方が力が強いに決まってる。それなのに、妻が怖いという状況が滑稽で「恐妻家」などと言われ、おもしろがられるのだろう。
山本文緒の短編集『ブラック・ティー』(角川文庫)に収められた『少女趣味』は、夫に暴力を振るわれる女性漫画家が主人公だ。夫は暴力を振るっては、ケーキを買ってきて優しくしたりを繰り返す。彼女はその状況のなか呆然と立ち尽くすだけだ。原稿をとりに来た編集者との会話だ。
「最初はよくても、こんな部屋にずっと住んでたら、僕でもおかしくなりそうだ」
「こんな部屋?」
わたしはまたもや聞き返す。
「カントリー調っていうのかい。完璧じゃないか。ギンガムチェック、ドライフラワー、テディベア、ステンシル」
彼は次々と指していく。
「君の作品の世界だ。インテリア雑誌が、きっと最優秀賞をくれるだろう。でも、男の居場所はここにはないよ」
彼はそこで立ち上がる。そしてわたしを目を細めて見下ろした。
「君ができないなら、僕が通報してあげるよ」
この部屋が嫌だと言えない男と、暴力を振るわれ続ける女。どちらの方が力関係が強いと言えるのだろうか。
奥田英朗の連作短編集『噂の女』(新潮文庫)では、気の弱い人が気の強い人に押し切られる図がそこここに描かれている。
公団マンションの抽選に当たりたいがためにコネを探していた知人から、役所勤務の婚約者に頼んでくれないかと頼まれた女性は。
「ねえ、岡本さん。謝礼金の話、ちゃんと婚約者にしてくれた」
今度は一美が隣りに来た。小百合が顔をひきつらせたら「いやそうな顔せんといてよ」と、まるでこちらが疚しいような言われ方をした。
「で、どうなった?」
「やっぱり二十万やないとアカンみたい」小百合が答えた。
「うそ。どうして。ええやん。少しまけてよ」
「じゃあ、この話、なしにする? わたしも、実際、間に挟まれて困っとるし」
「またそうやって人の足元を見る」
「見とらへんて。広瀬さん、何言っとるの」
頼まれてやってるのに、値切られて。それが通らないと、まるで自分が悪かのように言われて。いるんだよな。こういう、相手が弱いと思ったらとことんつけ込む人。そしてそれに、つけ込まれる人。
人と人が接するうちに生まれる力関係。たぶん、人と人が交わっていく限り生まれていくものなのだろう。常に上位に立ちたいと思うタイプの人と、そうではないタイプの人に分かれるのかも知れない。
仕事関係や立場やそういうものは別にして、人と人とは、基本フィフティフィフティであるべきだとわたしは、思っている。だが、そう思っていない人も多い。自分の方が優位に立ちたいと考える人と、フィフティフィフティでいることは難しい。人と人との力関係が生むドラマは、これからも紡がれ続けていくのだろう。まあ、小説やドラマなら楽しめるんだけどね。
左から1995年、2012年、2017年生まれの小説です。
庭の茗荷畑にいたカマキリ。「AX」は「斧」の意味で、タイトルはメスに食われるオスカマキリをイメージしています。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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