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はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々

小説「水たまりのできる場所」

「料理は、ハカイだよ」
 小西さんは、大根をスパッと切った。
「破壊って、漢字かける?」
「はあ、まあ」
「刻め! みじん切りにしろ! ちぎれ!」
 にやりと笑って、つけ足す。
「ぶった切れ! って感じの漢字?」
 バイトの女子大生マミちゃんが、厨房をのぞきこむ。
「なんか、こわーい」
 わたしたちは、駅前商店街のこじんまりとした居酒屋「麦」でバイトしている。町内では、どこよりも大きな赤ちょうちんが目印だ。
 マミちゃんはホール担当で、小西さんは厨房だ。わたしは厨房の見習いでひと月前に入ったばかり。小西さんが教育係というわけだ。小西さんはパートだが料理は店長よりもうまい。料理長でもある店長の長谷川さんは、新しい料理を出すとき、必ず小西さんに味見をしてもらう。アドバイスにも素直にうなずく。イチオシの大きくて丸い米茄子を縦半分に切り胡麻油でじっくり焼いた鶏そぼろあんかけは、もともとは小西さんのレシピらしい。来るたびこれをオーダーする客が多い人気メニューだ。ほかにも家庭料理っぽい味が評判で、店はいつも忙しい。
 今日も通路脇の狭いカウンターにはカナリアカラーのユニフォームTシャツを着た老人、ブラジル代表が姿勢よく座り、山梨の銘酒、七賢を冷やですすり米茄子をつついている。
 そのふたつ空けた隣りでは、月曜にしか姿を現さないかぐや姫がひとり、月に帰りたそうな伏し目がちな顔でビールを空けている。
 マミちゃんが熱を上げている彼を含む大学の山歩きサークルの五人も、変わらぬ調子で騒いでいる。
 夕飯を食べにくる小学生を連れた夫婦もいれば、女子会のおばさま方もいる。
 高くも安くもなく、ほどよくちょうどよく家庭料理が美味しく食べられる居酒屋は、ありそうでないらしい。

 小西さんは、少し小さい。
 そのことに気づいたのは、手の大きさを比べっこしたときだった。三十路手前のわたしより小指は一センチ二ミリほど、ほかの指は八ミリずつ小さかった。その先にちょこんとついた爪も、やはりわたしのものより少しずつ小さい。小指の爪はことのほか小さかった。
「小指の爪が小さい女はね、セックスに依存せずに生きられるのよ」
 しわが浮いた日に焼けた手の甲をなで、小西さんが笑う。そしてわたしの手をとりからかう。
「どーれ、楓ちゃんは? あ、でかい。エッチ大好きなタイプだ」
「なんですか、それ」
 五十五歳のおばさんの手の普通がどのくらいなのかは知らない。小西さんは母と同じ年だが、母はわたしが三つのときに死んでしまったので比べようがない。でもたぶんだけど、エッチ大好きなタイプだ、と生きていても母はいわないだろう。
 小西さんは、もちろん背もわたしより低い。やせていて肩幅も狭い。髪は小さな顔を強調するようなベリーショートのグレイヘアだ。
 小西さんが小さいと思い始めると、その少しの小ささがどんどんくっきりして、一緒にいると遠近や大小のバランスが崩れていくようになった。その感覚がけっこう好きで、小西さんといるのがだんだん楽しくなっていく。
「小西さんは、小顔でいいなあ」
 ぽっちゃりしたマミちゃんは、毎日のようにいう。小顔に憧れても、顔が小さくなるわけじゃないのにと、こっそり思う。けれどマミちゃんは、信じている。
「こうなりたいっていう自分の姿を毎日イメージしていれば、いつかそうなれるんですよ」
 人気女優のブログに、かいてあったらしい。
「背筋をピンと伸ばすために、クローゼットにバレリーナの写真を飾って毎日見てるんだって」
 バレリーナと小西さんは、違う、とふたたび思う。でも影響されやすいわたしは考えてしまう。小西さんは、小さくなりたいとイメージしていたのかもしれない。トイレに小人の絵を飾っているのかもしれない。だから、背も顔も手のひらも爪も足のサイズもみんな少しずつ小さいのだ。
 居酒屋「麦」のちょうどよさのなかで、バランスを小さく崩しているのが小西さん。わたしは、その小西さんに拾われた。

 あの日、気づいたときには居酒屋「麦」で、ひどく酔っぱらっていた。料理にほとんど手をつけず、ビールやらハイボールやらをがぶ飲みしていたらしい。
「もう、やめな」
 小西さんにグラスを持つ手をつかまれた途端、意識を失った。
 翌朝目を覚ますと、急性アルコール中毒だとか、なんだとか、医者は無表情で診断結果を告げた。そのとき、救急車に付き添って乗ってくれた小西さんに声をかけられたのだ。
「あんた、死にたいんだろ。だけど自分で死ぬ度胸もない。だから強くもないのにバカ飲みしてさ」
 図星だった。
「ほっといて、ください」
「ほっといてほしくないから、うちの店で飲んでたんだろうよ。それが迷惑なの」
 まったくその通りだ。うつむくわたしに、小西さんが続けた。
「迷惑かけたお詫びにさ、うちの店で働いてよ。ちょうど人が辞めて困ってたんだよね」
「は?」
「どうせ死にたかったんだろ。しばらく生きとくことにしてさ、手伝ってよ」
 愛する大ちゃんに死なれたばかりだったわたしは、宙ぶらりんのまま毎日なにもせずにいた。近い将来働かなくてはならないと思いつつも、ベッドから起きあがるだけで精一杯の日々だった。
 結婚して三年。幸せだと思っていた。でも大ちゃんはそうじゃなかったらしい。なにも変わらぬ夏の朝、車で出かけた彼は、会社とは反対方向の郊外の山のなかで事故死していた。車は崖から転落していて、ブレーキの跡もなかったという。警察は、自殺と断定した。
「なにも気づかなかったの? あなたがついていながら」
 姑も、義妹も、わたしを責めた。当然だ。わたし自身、今でも自分を責め続けているのだから。そしてあの日、パソコンのなかに遺書を見つけた。
「楓へ ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています」
 残された言葉は、それだけだった。

 小西さんは、ちょっとズレてもいる。
 初めてそう思ったのはバイトを始めて三日目。夜帰りの時間が一緒になった。ふたりとも駅から反対方向へとぷらぷらと歩く。小西さんは、十分くらい。わたしは十五分くらい。
 嫌ではなかったが、ちょっと警戒していた。年配の女性にありがちなお説教をされるのではないかと、ただただ黙って歩いた。
 バツイチなんて、今は普通よ。若いうちに新しい相手を見つけてさっさとやり直しなさい。あるいは、ひとりで生きていくんなら手に職をつけなくちゃ。男を頼らず生きていくなら、などなど。
「あのさ」
 小西さんが口を開いたとき、だから、ああ、始まったと思った。
「わたしね、どうしてもやめられないことがあるのよ」
 しかし小西さんは、真剣な表情をして耳もとでささやいた。
「見ててね」
 狭い通りに路上駐車している車は、黒塗りのベンツだった。そのベンツのワイパーを、小西さんはくいっと跳ね上げる。もう一本も、くいっと。
「ケケケ」
 小西さんは、振り向きざまにわたしを見て漫画でも吹きだしにも入らないような笑い方をした。こんなふうに笑う大人を、わたしはほかに知らない。
「え、これ、やめられないって、よくやるんですか?」
 これは犯罪になるのだろうか。
「自然と手が動いちゃうのよね。困ったもんだ」
 小西さんは、落ち着いていう。
「むかしね、ベンツに乗った男に騙されたことがあるのよ。めっちゃ好きだったの。それから路駐のベンツ見ると無性に腹が立ってワイパー上げちゃうの」
 わたしは、思わず笑いだした。
「やつあたりですか?」
 やつあたりするにしたって、ワイパーは微妙すぎる。
「ちょっとー、楓ちゃん、声大きいよ。バレたらどうすんのよ」
 逃げ出すように走り出した小西さんのあとを、笑いながら追いかけた。するとふたたび、あのさ、という。
「あたしの夢はね、世界平和なの」
「やってること、正反対じゃないですか」
「そうなのよ。夢と相反する気持ちがあたしを苦しめるのよね」
 楓ちゃんもさ、と小西さんは諭すようにいう。
「こういう小さなストレス解消法を、見つけた方がいいと思うよ、うん」
 かなりズレているような気もしたけれど、小西さんがわたしを励まそうとしていることだけはわかった。

 マミちゃんは、あちこち丸い。
 まん丸い顔に、丸くカールした茶髪。小顔を目指しているなら髪形を変えた方がいいのに、と思う。顔だけじゃなくて、胸もお尻も丸い。
「こぶとり爺さんのこぶが前にふたつ後ろにふたつくっついてるみたいだね、ありゃ」
 小西さんは、昔話に出てくる鬼になって、こぶをとってやりたくなると言っていた。
 それを聞いてから、マミちゃんがお尻を振るたびに、あのこぶをとったらとわたしまで考えてしまう。ついつい、もしわたしにあのくらい胸があったら、もしわたしがマミちゃんみたいに明るい子だったら、大ちゃんは今でもそばにいてくれただろうかと、考えてしまう。
 その考えは、いつだってすぐさま負の感情生む。囚われるとループにハマる。自分には大きな欠陥があるのではないか。だから大ちゃんは、なにも話してくれなかったのではないか。こんなわたしに、生きている資格などないのではないか。
 頭を振って、考えを振りはらい、野菜を破壊することに集中する。
 レタスを鷲づかみにしてちぎる。大根をスパッと切る。白髪葱を刻む。細く細く、破壊していく。
「料理は、ハカイだからね。嫌なことも忘れられるかもよ」
 そういって、小西さんはわたしを誘ったのだった。
「飯テロとかって言葉も最近じゃあるらしいけど、実際それ、あたしらのことだから」
 あたしら、と小西さんは包丁の先を光らせ、わたしに向けた。
「赤ちょうちんのテロリストだから」
 ホールでは、山歩きサークルの大学生たちに、今夜もマミちゃんは丸い笑顔で特別サービスをしている。
「肉じゃが、大盛りにしておきましたー」
 うれしそうに、お目当ての彼に耳打ちするのが常になっていたけど一応先輩だからと黙っていたら、とうとう一線を越えてしまった。
「これ、オマケです」
 厨房に入って塩豚のアジア風炊き込みご飯をおむすびにして、ごていねいにパクチーとライムまで添えて、五人で飲むうちの彼だけに出した。さすがにこれは、まずい。
「あのさー、マミちゃん。料理を勝手に出すのは、ちょっと」
 だけど店長は、はっきりモノがいえない。だから、バイトになめられる。とは、小西さん談。
「え、ダメなの? なんでですか。塩豚ご飯、今日ずいぶん余ってるみたいだし。あ、五人全員に出さなきゃダメでした?」
 小学生でもわかることが、マミちゃんにはわからない。
「オーダーされた料理以外は、いっさい出しちゃダ、メ、なの!」
 結局、最後はいつも小西さんが叱ることになる。
「えー、つまんなーい」
 マミちゃんがふくれっ面でさらに丸くなったとき、カウンターからお呼びがかかった。
「生、おかわり」
 かぐや姫だ。月曜にしか姿を現さない月の精は、なんのことはない美容師さんなのだそうだ。火曜が休みだから、週末の夜に飲みに来る。毎週毎週ひとり静かに飲んでいる。
「彼女、もう四杯目ですよ。最近、ペース早くないですか」
 マミちゃんが、生ビールサーバーから慣れた手つきでジョッキにビールを注ぎながら、小声でささやく。
「ますます、かぐや姫っぽく儚げになってきた感じ」
 忙しくなるとホールに入るわたしも、日増しに影が薄くなっていくような危うい雰囲気を感じていたけれど、あだ名のせいかも、とただ思う。
「あー、雨」
 小西さんのゆううつそうな声が厨房から響いた。
 小西さんは雨が苦手だ。苦手過ぎて雨の気配がわかるらしい。以前派遣で百貨店で働いていたときには、雨が降ると音楽が「オーバー・ザ・レインボー」に変わったけれど、居酒屋「麦」では、小西さんのアナウンスが合図となる。わたしは入口の傘立てを確認して貸し傘を準備した。
「あの音が、ダメなのよね」
 小西さんは、雨が嫌いというよりは、ジャンプ傘がパーンと開く音が嫌なのだという。
「あのパーンっていう音の勢いと一緒に、自分のなかのなにかがはじけて飛んでいっちゃうような気がするのよ」

 マミちゃんが試験やなにかで休むと、サラリーマンを早期退職して今はフリーの大林さんという六十代のがたいのいいおじさんがシフトに入る。もう七、八年前からたまのバイトに入っている頼りになる人で、居酒屋「麦」の情報ツウでもある。
「ブラジル代表は、五年くらい前まで奥さんとふたりで飲みに来てたんだよ。普通の恰好をしてさ」
「そうそう。なつかしいねえ。ちょっと料理にうるさい奥さんだったよね」
 小西さんが、あいづちを打つ。
 米茄子の鶏そぼろあんかけが美味しいと、わざわざ厨房の小西さんに声をかけてくれたという。
「奥さん、今は?」
「認知症になって、それが進んじゃってさ、ダンナの顔までわかんなくなっちゃったんだって」
 ブラジル代表が腰を痛めて在宅介護が難しくなり、施設に入ってからたったの一週間で、夫の顔を忘れてしまったという。
「それがさ、洗濯が間に合わなくて、昔サッカー観戦で着たブラジル代表のユニフォームを着ていったら、奥さんがダンナの名前を呼んだんだそうだ」
 若い頃サッカーをしていた夫の姿が、記憶の鍵を開けたのだろうという。
「それから、奥さんに会いに行くときにはユニフォームを着ていくんだよ。そのあと飲みにくるんだろうなあ。奥さんが好きだった米茄子を肴に」
 当たり前だけど、お客さんひとりひとりにも、人生があって、悩みがあって、毎日ご飯を食べなきゃならないし、眠らなきゃならないし、雨が降れば傘もささなきゃならない。
 子ども連れの夫婦だって、じつは離婚の危機に直面しているかもしれないし、手を叩いて笑っている女子会のおばさまたちだって、親の介護で毎日へとへとなのかもしれない。

 小西さんが、恋をしている。
 というのは、大林さんからの情報だ。
「先月から来るようになった有機野菜作ってる中田さん、いるじゃない」
 相手は、店長がお試しで頼んだ農家さんらしい。大林さんと同じく早期退職で、畑を借りて農業を始めたというひとり者の男性だ。来年還暦を迎えるという。小西さんとは四つ違いだ。
「『色っぽい男よねえ』って、熱いまなざし向けてたよ」
「あ、そういえば、『中田さんの里芋、すっごく質がいいからこれからも仕入れてね』って店長にいってました」
「わかりやすいなあ、相変わらず」
 ここのところ、ワイパーが跳ね上がったベンツを見かけなくなったのは、そういうことだったのか。
「ほんと、わかりやすいですよね」
 もとご主人の悪口をいうのが増えたのも、恋したせいなのだろうか。
「あたしね、べきべきいう人が嫌いなの」
 小西さんは、突然そんなことをいい出したりする。
「べきべき?」
「いるじゃない。こうするべき、ああするべきっていいたがる人」
「ああ、いますね」
「別れたダンナがそうだったのよ。納豆は混ぜるべきだって」
 小西さんが、バツイチだとはマミちゃんから聞いていた。
「なるほど。でも、納豆は混ぜるべきには一票入れたいな」
「あたしだって、混ぜるわよ」
「混ぜるんですか? じゃ問題ないじゃないですか」
「べきべき、うるさいのよ。まず醤油をかける前に思いっきり混ぜるべき。醤油を入れてからまた嫌っていうほど混ぜるべき。そのあと辛子と葱を入れて果てしなく混ぜるべき。ってどんだけ混ぜれば気がすむのよ、朝の忙しい時間にさ」
「小西さんは、納豆離婚だったんですね。勉強になります」
 褒められたと思ったのか、ほくほくとうれしそうな顔をして里芋をむき始めた。
「納豆離婚って、ねばっこそうだね」
「混ぜっ返さなきゃ、粘りは出ませんよ」
「混ぜっ返すわけないじゃない。昔の話よ」
 適当なあいづちにも、明るく元気よく反応する。そして包丁を動かしているわたしに、にやりと不敵な笑みを向けた。
「筑前煮の蓮根、大きさ揃える、べきだから」

 店長は、いろいろ長い。
 長い髪を束ね、ひょろりと高い背は、高いというより長いという方がぴったりくる。厨房で背中を丸めて料理している姿は、緩やかにカーブした胡瓜そのものだ。小西さんと並んでいると、里芋と胡瓜が、肉や野菜を破壊していくように見えてくる。
「マミちゃーん」
 店長は、ちゃんを長く伸ばして呼ぶ。そして話もまた長い。
「前にもいったけどさー、あ、先週の火曜日にってことだけど、そのさ、ネイルしちゃダメってわけじゃないんだけど、俺そこまで頭固くないからさ。でもあんまりどぎつい色とかごちゃごちゃくっついてるのとかは、料理だされるお客さんもひくと思うんだよねー」
 なんとも、まどろっこしい。マミちゃんがイライラするのもわかる。いちばんお説教されたくないタイプだ。ネイル禁止ってひと言いえばいいのに。
「はーい。気をつけます」
 口をとがらせたマミちゃんが、振り返りざまわたしに耳打ちする。
「話、長すぎ。うざっ」
 その店長から、お達しが出た。
「どうしてももう一度食べたい料理ってある? 新作料理、考えてるんだけど」
「はーい! カルボナーラ」
「それ、マミちゃんが今食べたいものでしょ」
「え? ダメなの?」
 小西さんのツッコミも、マミちゃんには効き目がない。
 どうしても、もう一度食べたい料理。
 なんだろうと考えた瞬間、すでに答えが出ていた。
「韓国風白菜鍋」
 新大久保の焼肉屋で、大ちゃんと食べた。あれ、本当に美味しかったな。
「この鍋みたいにさ、あったかい家庭を作ろう」
 それが大ちゃんのプロポーズだった。
「いいね、それ。名前からしてあったまりそうで美味そう」
 店長が、親指をつき出すと、小西さんもうなずいた。
「いつの間にか、冬の入口に立っちゃってるもんね。あたしたち」

 客がひけた月曜の閉店間際、小西さんと店長が韓国風白菜鍋を煮た。
「具は、たっぷりの白菜と、豚バラ肉と、あ、鶏も入ってた。胡麻油と豚と鶏の脂が混ざったこってり煮込み鍋なんです」
「こっちのレシピには、春雨も入ってる!」
 わたしの記憶と、マミちゃんのネット検索と、店長と小西さんの経験とで、まずは作ってみることにした。
「出汁は、干ししいたけでとったよ」
 と、店長。こっくりといい匂いが、店じゅうに広がる。
「白菜の芯をまず煮込んで、最後に葉っぱを入れると煮くずれないね」
 小西さんが、お玉でかき混ぜた。
「ご一緒に、いかがですか?」
 ラストまでカウンターでねばっていたかぐや姫を、店長が誘う。
「いい匂いですね」
 かぐや姫も、六人掛けのテーブルに移ってきて、ぽつんという。
「韓国風白菜鍋。なつかしい」
「食べたことあるんですか?」
 器によそいながらマミちゃんが聞くと、うなずいて、二色鍋だったという。
「半分は白くて、お好みで七味をかけて、半分はコチュジャンを混ぜて赤いの」
 それぞれに、七味やコチュジャンでふうふういいながら、味見した。
「めちゃうま!」
 マミちゃんの感想は、以上。
「白と赤と、二種類出せるな」
 店長は、珍しく店長らしい発言。
「どうしたの?」
 急に小西さんが、箸を持つ手を止めた。見ると、かぐや姫が泣いている。
「楓ちゃん、あんた泣いてるじゃない。あれ、あんたも?」
 かぐや姫とわたしは、顔を見合わせた。かぐや姫が顔をくしゃっとさせ、ぼろぼろと涙をこぼし始める。見ていたらわたしまで、どうしようもなく泣けてきた。
「わたし、美容室の店長と不倫してて」
 鼻をすすりながら、空になった器を大事そうに両手で持ち、話し始める。
「最近、奥さんに気づかれちゃったみたいで、一緒にご飯食べに行くこともできなくなっちゃって」
 わかんないですよね、こんな不倫女の気持ちなんて、とかぐや姫が鍋を見つめた。
「あのさ」
 小西さんが、鍋をかき混ぜてかぐや姫の器によそった。
「誰かの気持ちなんてさ、誰にもわかんないんだよ」
 熱々の器を差し出す。
「ひとりひとり違う人間なんだから、わかりっこないんだよ」
 だからさ、と小西さん。
「わかんなくたって、いいんじゃない?」
 でも、好きな人と一緒にご飯食べたいって気持ちは、と小西さんがお玉を振り上げた。
「わかる!」
「わたしも、わかる」
「俺も、わかる」
「わかるー」
 全員で叫ぶと、かぐや姫がまた涙をこぼし始めた。
「彼と一緒に食べたの。これ、美味しい……、ほんとに、美味しい」
 さらに、ぼろぼろと涙をこぼす。
「ほんと、美味しいよね」
 わたしも、涙が止まらなくなってしまう。
 マミちゃんが、生ビールを五つテーブルに置き、みんなで乾杯した。ぐいっと一気に飲み、すぐに酔っぱらった。
「ひどいんです、わたしの夫。なんにもいわずに勝手に死んじゃって」
 ずっと胸につかえていたことが、口をついて出る。
「夫の遺書ったら、ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛していますって、それだけだったんですよ」
 そんなんじゃ、と生ビールを空にして続けた。
「わかりっこないですよ、夫の気持ちなんて。でもわたし、わかりたかった。わかりたかったのに」
 本当はもうずっと、ずっとずっと、大ちゃんに文句をいいたかった。
「死んじゃうほど苦しかったんなら、話してほしかったのに!」
「そうだ! 楓。吐き出せ、吐き出せ」
 小西さんが、あおる。かぐや姫は声を上げて泣き出し、わたしに抱きついた。すると店長が、ぽんっと手のひらを叩いた。
「あのさ、それ、その遺書の言葉さ、ホ・オポノポノじゃない?」
 聞いたこともないような不思議な言葉に、みんなで首を傾げる。
「ハワイに伝わる、四つの癒しの言葉。ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」
「癒しの言葉?」
「ハワイ?」
「たしかその四つの言葉を口にすると、心が浄化されて癒されるとか、なんとか」
「ホ・オポノポノ?」
「ホ・オポノポノ」
「結局のところ、よくわかんないけどさ、あんたはダンナに愛されてたって思っていいんじゃない?」
 小西さんが、生ビールのおかわりをドンと置く。
「ますます、わかんないよう」
 テーブルに突っ伏すと、マミちゃんが背中をなでてくれた。
 その晩、わたしたちは思いっきり泣き、大いに食べ、大いに飲んだ。

 小西さんは、刻んでいる。
 葱を、にんにくを、生姜を。
 千切りにする。
 キャベツを、人参を、セロリを。
 スパッと切る。
 大根を、蓮根を、じゃが芋を。
 音を立てて、ちぎる。
 瑞々しいレタスを。
 小西さんは、破壊している。
「フラれたらしいよ」
 大林さんからのLINEで知った。中田さんには思い人がいたらしい。
 果てしないなあと、途方に暮れる。あと三十年、いやもっと生きていても、恋をしてときめいたり、恋に破れ絶望したりするのか。
「わかったようなこと、いうんじゃないよってさ、よくドラマとかでいうじゃない?」
 あれってさ、と小西さんは、厨房の低い天井を見上げる。
「誰にも、誰にも誰にも誰にも、いちばん近くにいる誰かにだって、その人の本当に深いところの気持ちはわかんないってことなんだよ」
 だから、と怒ったような顔でいう。
「下手ななぐさめは、やめてよね」
「ちょっと小西さん、包丁向けて怒らないでくださいよ、怖いから」
 すると小西さんはぷいっと下を向いて、鶏肉を切った包丁を洗いながら、つぶやいた。
「いいなあ、楓ちゃんは。死にたいと思えるくらい不幸で」
「はあ?」
 ぎょっとした。
「あたしなんか、納豆離婚して、里芋ブロークンハートだよ」
 肉用の包丁を拭きながら、いじいじといいつのる。
「楓ちゃんさ、あんた、いばってるでしょ。自分の方が大きい不幸だからって。あたしの不幸の小ささを、笑ってるんでしょ」
「まさか。笑ってなんかいませんよ」
「考えてもみなよ。不幸が小さいと、死にたいって思う資格すらないんだよ。もし死んだって、里芋で死んだって笑われるだけでさ。これってそうとう辛いんだから」
「はあ、すいません」
 意味もわからず、謝ってしまった。
「たいへんです。ブラジル代表が」
 マミちゃんが、厨房に知らせに来た。
「スーツ、着てる」
「あれ、喪服だから」
 飲みに来ていた大林さんが、訂正する。
「奥さん、三日前に亡くなったって」
「楓ちゃん、米茄子」
「はい」
 オーダーがくる前に、小西さんは米茄子を焼き始めた。そのとき、ホールから怒鳴り声が聞こえた。
「黙れ!」
 ブラジル代表が、男性客ふたりに殴りかかっていた。
「おまえに、おまえに、なにがわかる!」
 大林さんが止めに入る。
「離せ! 俺は……、俺は」
 泣き崩れたブラジル代表を抱きかかえて外へ連れ出し、そのままタクシーを呼んで送っていった。
「びっくりした……」
「ブラジル代表の声聞いたの、初めてかも」
 マミちゃんと顔を見合わせる。いつも姿勢正しく静かに行儀よく飲んでいるブラジル代表に、いったいなにがあったのだろう。
「あー、雨」
 小西さんがつぶやく声も、心なしか心配そうに響いた。

 帰り道、小西さんと一緒に、傘をさして歩いた。冬の夜の雨は冷たく、道路にはまだらに水たまりができていた。適当によけながら、ふたりゆっくりと歩く。
「水たまりのできる場所ってさ」
 前を歩く小西さんが、振り向いていう。
「雨が降らないとわかんないけど、晴れて乾いてるときだって、そこだけへこんでるんだよね」
 そういわれると、たしかにそうだ。
「人間にもさ、水たまりのできる場所が、あるのかもしれないねえ」
 いつもは人に見せないへこんでる場所がさ、と、ピチャッと水たまりを踏む。
 帰り際厨房に、マミちゃんが報告にきた。
「殴られたお客さん、お母さんは施設じゃなくて家で介護するって、家族ならそうするべきだって、酔っぱらって大声で話してたんですよ」
 ブラジル代表は、それを聞いてしまったらしい。
「なにが、べきだよ」
 小西さんは、吐き捨てるようにいう。
「奥さんを在宅介護できなかった自分を、責めて責めて責め続けていたんだろうに。そのへこんでいる場所に、土砂降りの雨が降ってきちゃ、たまんないよ」
「切ないですね」
 楓ちゃんの、と小西さんは前を向いたままいう。
「ダンナのこともさ。どんな気持ちだったのかわかんなくったって、しょうがないよ。水たまりのできる場所はさ、いつもは誰にも見えないんだから」
 はい、と返し、しばらくふたり無言で歩いた。すると、あ、と、小西さんが立ち止まった。
「この道路にかかれた『トマレ』の白い文字、『トマト』に見えない?」
 小西さんは、いつも唐突に変なことをいい始める。
「はあ、まあ、似てますね」
「あたし今、トマト踏んじゃったよ。靴ケチャップだよ」
「た、たいへんですね」
 じゃあね、と分かれ道で小西さんはさっと手を振った。きっと、まじめな話をするのが苦手なのだ。

 翌日は定休日だった。雨が上がり陽が射し始めたので、ベランダに傘を干した。ターコイズ一色の安物の傘は、パーンと軽い音を立て開く。
「あのパーンっていう音の勢いと一緒に、自分のなかのなにかがはじけて飛んでいっちゃうような気がするのよ」
 小西さんの言葉を思い出して、きっと昔雨の日になにかがあったんだろうな、と考える。小西さんにも、水たまりのできる場所があるのだろう。
 ベランダの空気は、気持ちよく凍っていて、見下ろした道路には「トマレ」の白い文字があった。
「トマト、かあ」
 ふつふつと笑いがこみあげた。ぷっと吹きだしてしまい、急いで部屋に入り窓を閉める。ひとり思いっきり、声を出して、思いっきり笑った。こみあげた笑いは、なぜかなかなかとまらなかった。
 存分に笑ったら、ふらりと歩きたくなった。数か月前には、歩きたくなるなんて気持ち、すっかり忘れていたのに。
 商店街を白い息を吐きながらあてどもなく歩いていくと、シルバーのベンツが停まっていて、あ、と思う。ワイパーが跳ね上げられている。
「ケケケ」
 小西さんの声が聞こえたような気がして、ワイパーの指し示す先を見上げると、澄んだ冬の青空にひとひらの雲が、小さく、とても小さく浮かんでいた。

photo by Yasuo Maeda

 

☆「女による女のためのR-18文学賞」の最終選考に残った小説です。落選しましたが、またがんばります。応援してくださって、ありがとうございました。選評は → こちら

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  1. より:

    偉そうな口を利くようですが
    「水たまりのできる場所」研きがかかっていいですね。
    楽しく読ませて頂きました。
    再度の挑戦を期待しています。

  2. さえ より:

    >寧さん
    読んでいただいて、ありがとうございます。
    最終選考に残ったことで、多くの方に読んでいただけて、励みになりました。
    またがんばって応募したいと思います(^_-)-☆

PROFILE

プロフィール
水月

随筆屋。

Webライター。

1962年東京生まれ。

2000年に山梨県北杜市に移住。

2012年から随筆をかき始める。

妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。



『地球の歩き方』北杜・山梨ブログ特派員

 

*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。

 

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昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々

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