あなたは、紅茶茶碗のおしゃべりを聞いたことがあるだろうか。
もちろんある、という方も多いことだろう。彼ら、あるいは彼女たちは、ときに饒舌で、会話の内容は多岐に渡る。多くの人を知っている紅茶茶碗は、知識も豊富だ。だが、家庭の食器棚に置かれ、ただひとりだけのために紅茶が注がれるものもある。そんな紅茶茶碗でさえ、興味深いことを語るのである。さあ、耳をすませてみよう。
「もうすぐ、お別れだね」
蓮の花が、いう。
若手陶芸家が夢を土に描くかのように創り上げた薄茶色の紅茶茶碗には、今にも咲きそうな蕾ともいえる蓮の花が描かれてる。イギリスのアンティークなティーカップの形をしているが、ソーサーはない。
「うん。きみの門出だね」
雪の結晶が、答える。
同じ形の、幾何学模様にも近い六角形の雪の結晶が描かれた紅茶茶碗は、蓮の花に比べれば、いくぶんか大人びて見える。
「彼女が、きみをずいぶんと気に入っている訳を、知ってる?」
雪の結晶が、問いかける。
「どうだろう」
と、蓮の花。
「きみのその今にも開きそうな蕾と描かれたラインの甘さの中にある、凛としたところに魅かれたのさ」
蓮の花は、しばらく黙っていた。
「そうだと、嬉しいけど」
彼ら紅茶茶碗たちは、わたしが小さな雑貨屋で目に留めて、この家に連れて帰って来た。特に蓮の花はわたしのお気に入りで、けれど小さかった娘のお気に入りでもあった。
小さかった娘は、やがて成長し大学に進学することになり、都会へと巣立つことになった。成長した彼女が、蓮の花をぜひ持っていきたいと望んだのだ。
「きみは、ずっとお父さんのお気に入りだったね?」
蓮の花が、話を変えるかのようにいうと、雪の結晶が、歌うように答えた。
「うん。お父さんはいつも、ミルクたっぷりアールグレイ」
蓮の花も、歌うように答える。
「お母さんは、アールグレイのストレート」
「そして彼女は?」
と、雪の結晶。
「ミルクたっぷりダージリン。寒い朝には、ほんの少しだけ砂糖を入れて温まって出かけるんだ」
蓮の花が、どこか淋しそうに答えた。
彼らの声は、そこで途切れた。まるで、これ以上しゃべると、どこかが欠けてしまうとでも思ったかのように。
それから、蓮の花は娘の小さなアパートで、雪の結晶は住み慣れたキッチンで夫のために、それぞれ紅茶を静かに温める日々が続いた。いくつもの季節を繰り返し、何年もの年月が流れた。
ところで、わたしには、もうひとり娘がいる。蓮の花を持っていったのは次女で、長女とはずいぶんと年が離れていた。
長女は十代の頃からなかなか家に居着かず、海外を転々とし、帰ってきたかと思えばまた旅立つ。そんな忙しない長女が、しばらく滞在した家で、雪の結晶に目を留めたのだ。旅先のオーストラリアで、紅茶に目覚めたという。
「お父さん、これ、もらっていい?」
夫は、ずいぶんと渋い顔をしたが、仕方がないというかのようにうなずいた。
すでに新しい、くすんだ黄色にドットが散りばめられたマグカップとペアを組んでいた雪の結晶も、旅立つことになったのである。
そんな彼らが、やがて再会することになろうとは、誰が想像したことだろう。
「聞こえる? お姉ちゃん」
「聞こえるよー」
コロナ禍でスタンダード化した電話会議。蓮の花と雪の結晶は、そこで再会したのである。
「あれー、お姉ちゃんのそのカップ!」
「えー、このカップ、もとはペアだったんだ?」
笑い合う彼女たちの手元で、紅茶茶碗たちもzoomでつながっていた。
「やあ、久しぶり」
雪の結晶が、声をかけた。
「そうか。きみも、家を出たんだね」
蓮の花は、少し驚いている。
「予測に反して、お姉ちゃんとね」
「予測がつかないお姉ちゃん。なつかしいな」
ふたつの紅茶茶碗は、やわらかな微笑を交わした。
「風変わりなフレーバーにも慣れたよ。今日はキャラメルテイストなんだ」
雪の結晶は、甘い香りをまといながら近況を伝えた。
「いいね。こっちは、アンティークな紅茶の淹れ方にこだわって、日々香り高く淹れてもらっているよ」
蓮の花も、バラにも似たかぐわしさをうれしく感じつつ語る。
「ずいぶんと、時間が過ぎたよね」
「たまに、アールグレイを淹れてもらうと、きみといた頃を思い出すよ」
「で、今日はなに?」
「ウバ」
「あの小さかった女の子が、ウバか」
「そうなんだ。でもさ、彼女はもう小さくないし、お母さんより紅茶の淹れ方も知識も豊富なんだ。たぶんね」
「そうか。そうだよね」
雪の結晶は、コホンと咳払いをした。なにかいいたいことがあるときの彼の癖である。
「ナティン」
「ナティン?」
蓮の花が、先を促す。
「お姉ちゃんが、ティータイムにいつも口にする言葉さ。パプアニューギニアの言語で『普通の』とか『特にさしたることのない』という意味らしい」
「それを、ティータイムに?」
「そう。特別ではない、けれどだからこそ大切なもの、という感じでね」
「ナティン」
蓮の花が、じっくりと味わうようにつぶやく。
「ナティン」
雪の結晶も、静かに繰り返す。
「いつかきみに、この言葉を伝えたいと思っていたんだ」
「ナティンか。うん、素敵だ」
蓮の花は、うれしいような淋しいような、そんなすべてが綯い交ぜになったような気持ちになっていた。描かれた蕾が危うく咲いてしまいそうになるほどに。
さて。蓮の花と雪の結晶が暮らした最初の家では、ドット柄のマグカップが、新しくやってきた明るい空色と焦げ茶色のツートンのマグカップと隣り合わせていた。
ドット柄には、アールグレイのストレート。空色と焦げ茶のツートンには、アールグレイのミルクティが淹れられている。
わたしは今、彼らがおしゃべりを始めるのを、そっと見守りながら心待ちにしているところだ。
ところであなたは、紅茶茶碗以外の食器たちのおしゃべりを聞いたことがあるだろうか。もちろんある、という方もきっと多いはずだ。
(エッセイ教室「花みずきの会」に提出したものです。フィクションが多く含まれているので「小説」としました)
娘たちが持っていった、それぞれの紅茶茶碗。
今使っているマグカップたち。
ナティンは、このイラストブックで知った言葉です。
『なくなりそうな世界のことば』を紹介したブログは、こちら。
「ナティンnating」、「ンブラBULA」、「シマナSIMANA」、「イヨマンテ IYOMANTE」、「ヒライスHIRAETH」、「オンデョカ ONDDOKA」。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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