「あぶないっ!」
わたしが叫ぶと同時に、娘は落ちた。アスレチックの太鼓橋を、上機嫌で登っていたのだ。しかしさいわいなことに、太鼓橋の下には草が力強く茂っていて、クッションの代わりをしてくれた。
と、思ったのもつかのま。いっせいに羽音を立てて、蜂が襲いかかって来た。標的は娘だ。草の茂みの中に蜂の巣があったのだろう。三歳になったばかりのやわらかな皮膚に無数の蜂がむらがっていく。わたしは夢中で蜂を掃い、娘を抱き上げて逃げた。
「毒吸いを持っています。応急処置しましょう」
森のなかのキャンプ場だった。走ってテントに戻ると蜂は追ってこなかったが、娘の腕や足には、数か所刺された跡があった。声をかけてくれたのは、隣のテントの見ず知らずの男性だ。彼は手際よく、スポイトのような毒吸いで、刺された場所の毒を吸い出してくれた。その間じゅう娘は泣いていたが、泣いていることで安心した。ショック状態になったりはしていない。
「泣いていいよ。いっぱい泣いていい」
わたしは、処置を受ける娘をしっかり抱きしめていた。
やがて、刺された場所すべての処置が終わった頃、娘は泣き疲れて眠ってしまった。身体じゅう確認したが一か所も腫れることなく毒を吸い出せたようだった。
「ありがとうございました。助かりました」
夫とふたり、親切な彼に礼を言った。
「とんでもない。困ったときはおたがいさまですよ」
彼は笑顔でその場を去ろうとしたが、ふとわたしの手に目をとめた。
「お母さんの方も、刺されてますね」
「えっ?」
見るとわたしの左手はすでに腫れてきて、紫色に変色していた。それから毒吸いをしてもらったのだが、腫れはひどくなるばかりだった。
「毒が回ってからでは、効き目もないんだと思います」
親切な彼は、まるで自分のせいであるかのように申し訳なさそうな顔で言った。
「だいじょうぶですよ。ショック症状が出ている訳でもないし、ただ……」
夫がなぐさめるように、親切な彼に言ったが、問題は残されていた。
「そうですね。場所が、悪かったですね」
刺されたのは、左手の薬指だった。その指の根元には、結婚指輪が光っている。指輪は腫れていく薬指に食い込みアクセサリーという風情をすでに失っていた。
「お役に立てなくて残念ですが……」
親切な彼は自分のテントに引き上げ、結局、わたしは救急病院へと向かうこととなった。
「蜂に刺されたことに関しては、治療の必要はありません」
医師は、きっぱりと言った。ここまで腫れていたら、あとは腫れがひくのを待つしかないそうだ。
「問題は、指輪ですね」
医師は、今度は多少のためらいを見せながら言った。
「このままでは、鬱血して薬指が危険です。指輪を切る以外に方法はありません。切ってもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
わたしは、迷うことなく答えた。すると医師は、困ったような顔をして夫の方を向き、再び訊いた。
「指輪を切っても、いいでしょうか?」
「しょうがないですね」
夫は苦虫をつぶしたような顔をして、答えた。
(結婚式みたいだ)
わたしは、ぼんやりと考えていた。
「病めるときも健やかなるときもなんとかかんとかで、誓いますか?」
「はい、誓います」「では、指輪の交換を」
「指輪を切ってもいいですか?」
「はい、お願いします」「では、指輪の切断を」
そうして結婚指輪はものの一分ほどで切断され、枷を外された左手は安心して腫れていき、野球のグローブを思わせる様相となっていった。
「何かが終わった気がするな」
切断された指輪を手のひらにのせ、夫が言った。精一杯のジョークだろう。わたしは嫌な役回りを引き受けてくれた医師と、そのジョークに感謝した。
結婚指輪は作りなおしたものの、その後、夫の指輪と仲良くタンスの奥で眠っている。あれからもう二十年以上が経った。
それを久しぶりに、左手の薬指にはめてみた。ぴたりとはまり抜けなくなることもない。ちょうどいい大きさだ。
結婚指輪って、不思議なものだよなあと考える。
大恋愛の末結ばれた仲のいいふたりでも、指輪はしないという夫婦もいる。会話もとうになくなったふたりでも、指輪だけはしているという夫婦もいる。男性だけがしていたり、女性だけがしていたり、それぞれだ。結婚指輪をするもしないも、ふたりが決めることなのだ。
たぶんそこには、愛とか、喜びとか、束縛とか、憎しみとか、情とか、義理とか、間合いとか、バランスとか、あきらめとか、かけひきとか、蜂に刺された場所だとかが関係している。ひとりひとりの薬指が長さも太さも違うように、指輪が持つ意味合いも、夫婦それぞれ。ひとつとして同じではないのだろう。
結婚指輪、していますか?
☆今日はエイプリールフールですが、嘘のようなホントの話です。
久しぶりに結婚指輪をしている左手くんです。何故か照れている(笑)
ネイル更新しました。初めてイエロー系に挑戦してみました。
村道に咲いていた梅です。さく~ら~は、まだかいな?
おはようございます。
いやぁ~、大変な事が昔あったんですね。
親切な人のおかげで、娘さんは大事に至らなくて良かったです。
毒吸いっていうのがあるんですね。
孫も1歳の時、洗濯物に入っていたスズメバチに指先を指されて病院に行ってました。
鉢って本当は怖いもんなんですよね。
アナフィラキシーショック・・・私は蕎麦でアナフィラキシーショックを起こすので、怖さを良く知っています。(*_ _)
結婚指輪は主人は太って入らなくなって外しています。
私も好きなハワイアンジュエリーを見つけて結婚指輪代わりにしているので、二人の指輪は和箪笥の小ひきだしの中なんですよ~(^^ゞ
ユミさん
そうなんです~子ども達が小さい頃は、よくキャンプに行っていて、いろいろありました~
他の事件も(笑)またおいおいかいていきたいな~と思います。
毒吸いは、それから買って、家に置いてあります。700円くらいでAmazonでも売っているんですよ。
キャンプ場じゃないけど、この変も蜂は多いから。
ユミさんは、お蕎麦でアナフィラキシーショックを起こしたことがあるんですね・・・。
アレルギーも、蜂も、怖いですよね~。
太って指輪が入らなくなったって、男性の方がよくあるような気がします。しあわせ太りなんでしょうね。同年代の方は、箪笥のなかが多いのかも知れませんね~
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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