村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)の5話目「木野」は、わたしが思うに、なかでもとりわけ村上春樹的な小説だった。
木野(きの)は、主人公の男の苗字で、また店の名でもある。
青山は根津美術館の裏手の路地に、彼は「木野」というバーをひとり経営している。物語は、いつも同じ席に座る独特な雰囲気を持つ男の話から始まるのだが、次第に木野の心の闇に触れていく。木野は、同僚と妻との浮気現場を目撃し、何も言わず家を出て、ひとり落ち着ける場所を求めてたどり着いた猫のように、バーを始めたのだった。
だがある日、男が木野に言う。此処から離れ、遠くに行くようにと。「多くのものが欠けてしまった」から、と。木野は男に訊ねる。「正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから、重大な問題が生じた」ということか、と。木野がしなかった「正しいこと」とは。
しかし時間はその動きをなかなか公正に定められないようだった。欲望の血なまぐさい重みが、悔恨の錆びた碇が、本来あるべき時間の流れを阻もうとしていた。そこでは時は一直線に飛んでいく矢ではなかった。雨は降り続き、時計の針はしばしば戸惑い、鳥たちはまだ深い眠りに就き、顔のない郵便局員は黙々と絵葉書を仕分けし、妻はかたちの良い乳房を激しく宙に揺らせ、誰かが執拗に窓ガラスを叩き続けていた。こんこん、こんこん、そしてまたこんこん。目を背けず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがおまえの心の姿なのだから。
読み終えて、自分の心の闇さえも覗いてしまったような深い喪失感を覚えた。
表紙のこの絵はバー「木野」を描いたものでした。
路地の奥の一軒家、小さな目立たない看板、歳月を経た立派な柳の木、無口な中年の店主、プレーヤーの上で回転している古いLPレコード、二品ほどしかない日替わりの軽食、店の片隅で寛いでいる灰色の猫。そんなたたずまいを気に入って、何度も足を運んでくれる客もできた。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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