村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)も、6話目でラスト。表題作で、書き下ろし作品だ。
ストーリーは、真夜中の電話で、昔の恋人の訃報を受けた男が、失くした恋人について、恋人を失くすということについて、また『女のいない男たち』について、思いを巡らせることに終始する。
読みながら、くすくす笑いが止まらない小説だった。筆が滑り過ぎでしょうと思うのだが、それが村上春樹独特のユーモアになっていて、ここまで、さらにここまで滑らせるかと、可笑しくてたまらなくなるのだ。
真面目にやればやるほど滑稽で、可笑しさが込み上げ笑いが止まらないタイプの一人芝居を観ているようだった。
例えば、精一杯ドレスアップし気どった女性が、ネックレスと間違えて延長コードを首にかけていることに気づかずにいるような、そんな可笑しさと言えば理解していただけるだろうか。以下、本文から。
世界中の船乗りたちが彼女をつけ狙っているのだ。僕一人で護りきれるわけがない。誰だってちょっとくらい目を離すことはある。眠らなくてはならないし、洗面所にもいかなくてはならない。バスタブだって洗わなくてはならない。玉葱を刻んだり、インゲンのへたをとったりもする。車のタイヤの空気圧をチェックする必要もある。そのようにして僕らは離ればなれになった。
『女のいない男たち』より
そう言えば、恋するってこと自体、滑稽だよなと思い当たった。本人達は大真面目で必死な訳だが、傍から見ると、微笑ましくもあり、可笑しくもあり。放っとけよと言われそうだが、揃いのTシャツを着ていたり、半分に割れたハートの欠片をふたりしてぶら下げていたり、恋するものだけが出来る滑稽な行動だと、歳を重ねた今なら判る。歳をとったらとったで、また何処までも滑稽なのだろうが。ラブコメが、永遠であり続ける所以かな。
いやいや。この小説がラブコメという訳ではない。どちらかと言えば短編集のエピローグといった役割で、ラストにそっと、かなりうるさく収まっている。
まあ、などなどと『女のいない男たち』を読み、楽しみ、くすくす笑う女たち、のひとりであるわたしは、思うのである。
写真はイメージです(笑)7年前イタリアを旅した時のものです。
短編『女のいない男たち』では「水夫」がタフな男たち代表になっています。
女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)彼女を連れて行ってしまうのは奸智(かんち)に長けた水夫たちだ。
『女のいない男たち』より
最後まで顔が見えてこなかった死んだ昔の恋人は、こんなイメージかな。
ヴェネツィアのカフェです。工事中の目隠しには、素人(?)アート。
photo by my husband
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。