兄妹、姉妹って、似ている方が一般的なのだろうか。
同じ親の遺伝子を持ち、同じ親に育てられた、別個の人間。我が家の子どもたち3人は、それぞれが個性的だとよく言われる。
29歳の息子は、本の虫だが、物理工学を学んだ理系。変化を嫌う。
27歳の娘は、バックパックひとつで海外を放浪し、外国人の友達が多い。外見にもにじみ出ているのか、最近よく中国人と間違えられる。
22歳の娘。自ら演じ、脚本もかく芝居好き。ちょっとオタクな文系。
彼らは3人とも、夫にもわたしにも似ている部分は持っているが、まったく似ていない突然変異のような存在でもある。しかし、自分だけが血の繋がった兄弟ではないと、本気で疑ったことはないだろう。わたし自身、弟と妹とは似ていない部分ばかりが目立つように感じているが疑いを持ったことはない。
だから思っていた。兄妹って、似ていない方が普通なんじゃないかと。
だけどある日突然、そのうちのひとりがいなくなって、2年間帰ってこなかったら? 帰って来たはずの兄弟が事件のショックやら何やらで風貌が変わり、違う子なんじゃないかと疑ってしまったら?
湊かなえのサスペンス『豆の上で眠る』(新潮社文庫)は、似ていない、しかしとても仲のいい姉妹が、引き裂かれたその後の物語だ。
結衣子が小1のとき、小3の姉、万佑子が失踪した。
活発で外遊びが好きな結衣子と違い、万佑子は身体が弱く色白で読書好き。母親が自分より万佑子を可愛がる様子に万佑子と似ていないコンプレックスを抱えていた結衣子だが、万佑子のことは大好きだった。
万佑子にアンデルセン童話『えんどう豆の上にねたおひめさま』を読んでもらい、お姫様と同じように豆の上に何枚もの布団を重ね寝てみて豆の存在に気づくか実験したときのことは、万佑子ちゃん大好きという気持ちとともに思い出すエピソードだ。そんな結衣子にとって万佑子の失踪は深い傷を残す事件だった。
そして2年後、万佑子は発見される。
しかし結衣子は思う。万佑子ちゃんじゃないと。
一般的に人を識別する歳、主にどこで判断するのだろう。病室のベッドの上で体を起こしていた女の子は、細い体に長い髪、色白の肌、といった私が憶えている万佑子ちゃんの特徴を備えていた。
さらに、考える。
しかし、見た目とは別の部分で、違う、と感じたことに関しては、簡単に修正することはできない。
事件から13年後、大学生になった結衣子は、深く突き詰めてはいけない、それでも真相を知りたいという揺れる気持ちを抱えながら帰郷する。
何枚もの布団の下にある小さなえんどう豆のように、結衣子は違和感を抱え続けて生きていた。童話『えんどう豆の上にねたおひめさま』では、その違和感を訴えたお姫様は認められ、王子と結婚しハッピーエンドとなる。けれど結衣子が、違和感を訴え続け、突き詰めた先にあったものとは。
大切な人との結びつきが、どれだけ深いものなのか。どれだけ深いと自分は思っているのか。相手はどんなふうに思っているのか。そこに親子とか、兄妹とか、あるいは夫婦とか、そういう血やカタチに惑わされている部分はあるのか、ないのか。あってはだめなのか。あるのが普通なのか。求めているものは何なのか。
読み終えて呆然とし、そんなことを考えた。
同じに見えるおもちゃの指輪のなかには、人の影がうっすら見えるみたい。
ずっとナチュラル水で飲んでいた紅茶が、炭酸水に! この違和感、受け入れられますか? って、普通に美味しかった(笑)なんてこともありますね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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