本屋をゆっくり歩くと、知らない作家の本に出合う。
加藤千恵は、高校生歌人として短歌集でデビューした30代の女流作家だ。
7編の短編にアイテムとして置かれているのは、過去に大切な人からもらった”何か”。婚約指輪、文庫本、ワタリガニの缶詰、たまごっち、天然石のブレスレット、アンクレット、ボールペン。
それらが、主人公の過去の扉を開ける鍵となり、小説は今と過去を炙り出す。
タイトルの『あとは泣くだけ』は、どの話も切なくやりきれないまま幕を閉じることからつけられている。
「触れられない光」
依存する母親に苦しみつつも、ひとり残していくことはできず結婚をあきらめた〈わたし〉は、引き出しの奥に眠る婚約指輪を見つける。
彼のことを思い出すとき、わたしは苦しくなる。切なさとか未練とか、断じてそんなものとは違う。胸が締めつけられるというよりもっとダイレクトに、首をしめられるような苦しさ。彼といられなかったつらさだけじゃなくて、どこまで続くかわからない未来が、わたしを恐怖におとしいれようとしている。
「被害者たち」
ガスコンロの下から出てきたワタリガニの缶詰に〈わたし〉は、6年前につきあっていた彼を思い出す。深く濃厚な恋だった。
もっともっと境目がわからなくなればいいのに、と思っていた。感情も体も、全部一つの同じものだったらどんなにいいだろう、と奇妙な願望を抱いた。
だから〈わたし〉は、彼が暴力を振るうようになってからも離れられずにいた。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」
彼の口からは、同じ言葉が小声で繰り返されていた。ごめんなさい、ごめんなさい、とわたしも言った。
わたしたちは二人とも被害者だった。少なくともここに加害者は存在していなかった。
「恐れるもの」
〈わたし〉が忍び込ませたアンクレットを夫が見つけたのは、すでに忘れた頃だった。浮気相手からもらったプレゼントのそれを、流産して以来、妻に興味を失くした夫が見つけたらなんと言うだろう。そうほんの少し期待して夫の礼服のポケットに隠したのだが。
「大切なのは対話」「恐れるのはいさかいではなく誤解やすれ違い」「一番の理解者であり味方」
結婚式のスピーチ用のメモを見つけた〈わたし〉の気持ちは、泡立つ。
あなたはわたしを一番の理解者だと思ってるの?
わたしたちの間に対話はあるの?
炭酸水のように、次々と心に疑問の泡が浮かび上がってくる。どれもぶつけることはできず、ただはじけていくのを待つばかりだ。黙っていれば炭酸は抜けていく。またただの水に戻ればいい。
あとは泣くだけ、なのに、そこに留まっているのはなぜだろう。生きていこうとしているのは、どうしてだろう。
過去を振り返った刹那、そう思ったのは、小説中の主人公であり、わたしだった。
表紙絵はマンガ家のいくえみ綾。若い女性が手にとりそうな恋愛小説集です。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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