彩瀬まるは、「女による女のためのR-18文学賞」からデビューした作家だ。
去年は、自分の娘ほど歳若いこの作家の小説を夢中になって読んだ。
これは、帯に「極上の食べものがたり」とある通り、食を芯に据えた6編の短編集。表題作はなく、集めた小説たちにつけたタイトル『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』にも、言葉選びのセンスを感じる。
「シュークリームタワーで待ち合わせ」
料理家の夜子(よるこ)は、中学からの友人、幸(さち)が3歳の息子を亡くしたと知り、実家に帰ってほぼ寝たきりになっていた彼女を、ひとりで暮らす自分の部屋へ連れて帰った。
幸は、料理をまえにすると、それが引き鉄となり涙をこぼし始める。消化のいいものからスタートし、毎日泣きながら食べるのを繰り返し、ある日ようやく珈琲を口にして幸が言った。
「食べるってすごい」
落ち着いたのかと思いきや、まばたきをした幸の目には再び涙がふくらんだ。
「すごくて、こわいね」
「こわい?」
「生きたくなっちゃう」
「なに言ってんの」
ぐ、と苦しげな嗚咽をこぼしながら、幸は時間をかけてカップ一杯のカフェオレを飲み干した。
夜子は、子供への愛情がわからないどころか、結婚にだって嫌悪を抱いている。そんな彼女と今も仕事でつながっているもと婚約者は言う。
「子供って、親からすれば体の外側にある急所なんだよ。内臓みたいなもん。内臓を潰されたら死ぬか、死にかけるだろ。だからその友人も、死にそうなんじゃないか」
「……全然、想像できない。異世界の話みたい」
「家庭は、異世界だよ。社会とは違う。ちょっとずついろんなものがずれる。愛情で、なんらかの磁場が狂う」
そう言う彼と別れたのも、彼が横暴な父親と一体化しているさまを見せつけられたからだったと夜子は思い起こす。
「大きな鍋の歌」
退院する見込みのない病で病室にいる万田を、〈俺〉は見舞う。たがいに50代になる調理師専門学校の同期生だ。食べることが好きな旅仲間でもある。
次第に食べられず、やせ細っていく万田を見舞ううち、彼が〈俺〉の家で、大鍋にシチューを煮てくれたことを思い出した。母親が亡くなってすぐのことだ。父子家庭で、祖母になついていた娘の野栄(のえ)とふたり、途方に暮れていた。
調理の匂いに気がついてか、パジャマのまま自室から出てきた野栄と、万田は膝を折って目の高さを合わせた。
「好きなパンを好きなだけ食べてね。あとシチューも、一日に一杯でいいから食べてください。なるべく野菜がたくさん入っているところをすくってほしいな」
丁寧な口調だった。
それまで食欲がなかった野栄が、大鍋をのぞいて「食べる」と言った。
いや、そのまえにも、万田が〈俺〉の家のキッチンに立ったことがあった。妻が出ていってすぐのことだった。〈俺〉は野栄に語りだす。
”食べる”ということは、欲求であり、血や肉を作るための行いだ。人が生きていくうえで、当然切り離すことはできない。
だからこそ、特別なディナーにも、きのうと同じ朝食にも、それぞれの物語が生まれていく。記憶のなかにも残っていく。
こんな日々がわたしにもあったなあと思い出したのは、「ポタージュスープの海を越え」の4歳児の子育て真っ最中という主婦、素子のセリフ。
「家庭の食卓って、忖度の積み重ねでできてるよね。自分がこれを食べたい、意外の理由で組み立てた料理を毎日作り続けるのって、考えてみるとけっこうクレイジーだよ。しかもそうして作った料理を、家族が喜ぶかっていうと微妙なわけだし」
ほかに、「ひと匙のはばたき」「かなしい食べもの」「ミックスミックスピザ」が収められている。
美味しい小説大好きです。
☆シミルボンサイトで彩瀬まるの小説を紹介した連載は、こちら。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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