1980年に刊行された短編集である。
その頃に読んだかもしれないが、記憶にはなかった。
日々の暮らしのなかで、誰もが持っている”負”の部分を描きつつ、そんな人間という生き物を、肯定も否定もせずに受け入れている。ちょっと淋しく物悲しい13編の小説が収めてある。
「かわうそ」
陽気で魅力的な9つしたの妻は、しかし、かわうそのような狡猾さを持つ。熱を出した赤ん坊を置いてクラス会に行き、挙げ句死なせてしまい、医者のミスだとシラを切り通した女は、脳卒中で倒れた夫の家を売ろうとしていた。
宅次は立ち上がった。障子につかまりながら、台所へゆき、気がついたら包丁を握っていた。刺したいのは自分の胸なのか、厚子の夏蜜柑の胸なのか判らなかった。
「凄いじゃないの」
厚子だった。
「包丁持てるようになったのねえ。もう一息だわ」
「犬小屋」
妊娠中の達子は、電車でカッちゃんを見かけた。魚屋のカッちゃんは、達子が学生の頃、よく家に入り浸っていた。犬の散歩を買って出て、犬小屋まで建てた。一度だけ達子に襲いかかり、玉砕した。
犬には犬地図というのがあるという。
これは人間の考える地図とは全く別のもので、どことどこの電柱と垣根にはおれの匂いをつけてある。どこにいじめっ子がいて、どこにご馳走をくれるうちがあり、どこに憧れの牝がいるか、ちゃんと頭の中に描いてあるのだ、としゃべった。
朝の早い父があくびを洩らし、それをしおに母が布団を敷きに立ち、やっとカッちゃんは帰ったわけだが、
「犬地図ねえ」と呟いた母に、
「ありゃ自分のことだな」
父は、よく判っているかのようであった。
「ダウト」
エリートとしてサラリーマン人生を歩んできた塩沢は、父の葬儀にやって来たいけ好かない乃武夫のひと言に、昔、自分がした悪事を苦々しく振り返る。
自分のなかに、小さな黒い芽があることに塩沢は気がついていた。
人が見ていないと、車のスピード違反をする。絶対安全と判ると、小さなリベートを受取ったこともある。出張先で後くされのない浮気をしたことも二度や三度ではなかった。
人間的にもよくできた人、という評価の裏のこういう面を、我ながら嫌だな、と思いながら、なあに人間なんてこんなものさ、このくらいは誰だってやっているさ、とうそぶくところもあった。
だが、たったひとつ、思い出したくないことがある。
1話ずつカードの裏表を確かめるかの如くゆっくりとページを捲りながら、そのたび胸の奥にちくりと疼きを覚えた。その疼きは、痛いとわかっていてかさぶたを剥がしてしまうときのような心持ちと似て、自分でも欲しているのかいないのかわからない種類のものだった。
13編のとりどりの小説を1枚のカードに見立てて「トランプ」をタイトルに持ってくるなど、とても洒落ていますね。
表紙絵の風間完が、短編ごとに13枚モノクロの絵を扉に描いていて、それも魅力です。これは「三枚肉」の扉です。
「大根の月」
「花の名前」は、つわぶきの花でした。
向田邦子の本
若い頃、何冊か読みました。母から借りたものです。
田辺聖子と向田邦子は、ほとんど持ってると母がよく言っていました。
私も、もう一度読み返したいなあと思いました。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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