記憶とは、やっかいなものである。
陽だまりをぼんやり眺める穏やかな時間のなかにいてさえ、過去の記憶をふと思い起こした瞬間、陽だまりよりも影ばかりが目についてしまうこともある。
さらにその影のもっとも暗い部分に、穏やかな”今”に疑問を持つ自分が芽を出してしまうことだって起こりうる。
8編の短編集は、記憶のなかの出来事を思い起こした”今”を描いていた。
「猫男」
恋人と異国で中華料理を食べていたとき、〈私〉は思い出してしまう。
人生においてはじめてフルコースの中華料理を食べたのは十八歳のときで、K和田くんといっしょだった。
消しゴムのような男だったとK和田くんを思い起こし、〈私〉は影の奥へと目を凝らしていく。
他人の弱さに共振して、自分をすり減らす。共振された他人は、K和田くんのおかげか、もしくは時間の力か、自己治癒力でか、そのうちたちなおってふたたび世のなかに向き合い同化する。けれどK和田くんは、いつまでもすり減ったままなのだ。自分とは露ほども関係のないことがらに傷つき、うなだれ、気力を失い、そしてそのまま、たちなおることができない。
〈私〉は、恋人が弱さを嫌っていることを知っている。弱いK和田くんのことを嫌悪することも。それでも話し始めたのは、異国のせいでも中華料理のせいでもないのかもしれない。
〈私〉は、恋人の弱さを憎むところを、憎んでいるのだと思い知る。
けれど私が好きになるのは、きまって彼のような男なのだ。自分の食い扶持をきちんと稼いで、身綺麗にして、おいしいものを食べて、労働の合間には休暇を得ることが当然と思い、穴ぼこに足をとられないよう、そのことだけにほとんどの意識を集中させつつも、前を向いて足を踏み出す彼のような男なのだ。
異国の岬を歩き、猫に餌をやる男にK和田くんを見い出し、〈私〉は目が離せなくなる。K和田くんの弱さを憎むことができない自分と、それを憎む男とともに居る自分から。
しかし、影のなかに陽だまりを見つけることもある。
「おかえりなさい」
学生時代、怪しげなパンフを配るバイトをしていた〈ぼく〉は、認知症の老婆に昔の恋人と間違えられ、もてなしを受けていた日々を思い起こす。
信じられるものを、ぼくは創り出したかったんだろう。それは恋愛感情というあいまいなものでも、婚姻という形式でもなくて、もっとささやかでちいさなもの。老婆が運んできたビールと、冷やしたグラスみたいなもの。こぽこぽというちいさな音や、湯気をたてる料理みたいなもの。お帰りなさい、いってらっしゃいとすりへるくらいくりかえす言葉。
〈ぼく〉は、まさに今別れようとしている妻に、その話をするのだった。
ほか「父とガムと彼女」「神さまのタクシー」「水曜日の恋人」「空のクロール」「地上発、宇宙経由」「私はあなたの記憶のなかに」の6編。
抽象画のような表紙絵。記憶の曖昧さや不可思議さを表しているのでしょうか。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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