本棚にあった江國香織の『神様のボート』は、1999年に発売された新刊で、たぶんすぐに買って読んだのだと思う。
22年前に読んだことすら思い出せないこの小説は、とても新鮮で瑞々しかった。
母、葉子と、娘、草子の一人称の語りが交互に綴られている。
例えば冒頭は、10歳の草子の語りだ。
あたしが発生したとき、あたしのママとパパは地中海のなんとかという島の、リゾートコテッジにいたのだそうだ。
葉子は35歳で、草子が生まれてすぐに離婚して、本人の言うところの”旅がらす”となった。ふたりで転々と1年か2年かそのくらいで居場所を変えていく。
葉子は、ピアノ教師とバーの仕事を掛け持ちするのが常で、1997年、高萩に暮らすようになってからもそうだった。
箱のなか、は、ママとあたしにだけ通じる言い方で、もうすぎたこと、という意味だ。どんないいことも、たのしいことも、すぎてしまえばかえってこない。
――でもそれはかなしいことじゃないわ。
引っ越しが嫌で泣く草子に、葉子は言った。
――すぎたことはみんな箱のなかに入ってしまうから、絶対になくす心配がないの。すてきでしょう?
草子は、その箱を想像する。どんな形のどんな大きさの箱なのかと。
わけあって東京に居られなくなった葉子だが、草子の父親の言葉を信じて待っていた。
――かならず戻ってくる。そうして俺はかならず葉子ちゃんを探しだす。どこにいても。
彼には、家庭があった。けれど、葉子は心から信じていた。
”パパ”のことを草子にはこんなふうに話す。
「こういう、すばらしくきれいな背骨をしていて」
ママはあたしの背骨に触る。
「こういう、すばらしく理知的な額をしていて」
つめたい指で、やさしくあたしの前髪をかきあげる。
「それで、いつもまっすぐに物事を考えるひとよ」
そんな”パパ”と骨ごと溶けるような恋をしたのだと。
だが草子も、思春期を迎えた。1999年には佐倉へ超したときには中学生となり、2001年に逗子に移り高校受験を考えるときが来た。
――あたしは現実を生きたいの。ママは現実を生きてない。
もしも葉子のような、迷いもせず娘をも巻き込むほどに一途な恋ができるのなら、「神様のボート」に乗りあてどなく流されてゆくのも悪くない。
表紙の装画は、安西水丸さんのものでした。ボートの形が、微かに左を向いていますね。
江國香織は、あとがきに”これは狂気の物語”だとかいていました。
海に出るつもりじゃなかった。
これはアーサーランサムの小説のタイトルですが、人生にはそういうことがときどきあって、「彼女」の人生もたぶんそんなふうにして、それまでの生活から切り離されてしまったのだろうと思います。
おはようございます。
江國香織の「神様のボート」
私も、持っています。何度も何度も読みました。
「狂気の物語・・」私も、そこ、印象に残っています。
ひとところに、定まらず、その街で居場所を見つけ、人と出会い、草子は大人になっていきましたね。
根無し草だけど、浮遊感、心の自立、そして自由。なんかそんなことを感じ、読んでいると心地よかったのです。高萩、知らなかった関東の街の名前を初めて知りました。地図で調べましたね~(笑)
宮沢りえ主演でドラマ化されていましたね。見てないのですが、どんな感じだったのでしょうね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。
管理人が承認するまで画面には反映されません。