美しい色合いの装幀にハッとさせられる、彩瀬まるの4編から成る中編小説集。
「わたれない」
暁彦は、会社の九州移転を受け退職を決意した。妻の咲喜は、産休明けの職場復帰から2ヶ月。転職先を探しながら、7ヶ月の娘の育児と家事を担うことに。
タスクだらけの育児と家事に振り回されながら、ふと妻にこぼしてしまう。
「おっぱいがほしい」
何をしても泣き止まない娘とマンツーマンで向き合う時間に、泣き声の幻聴が聞こえ始めた頃、自分に足りないものを突き詰めてしまう。
万策尽きると、まるで抗議でもされているような気分になってくる。どうしてお前はママじゃないんだ、ママがいい、ママがいい、と。
そんなある日、ブログ「コウテイペンギンの子育て日記」に出会い、そこにかかれた育児テクニックを拠り所にするようになる。
泣き止まないときのアドバイスには、こうある。
①抱っこしたまま、好きな音楽を流してノリノリで歌う。
②歯が生え始めの時期だと、歯ぐずりかも。歯固めが有効。
③色の派手なぬいぐるみを、出しては隠す。
④抱っこしたままスクワット。
そして、最後にこう結んでいた。
それでもダメなら、その子がとにかく泣きたいんだよ。親は焦らずアイスでも食べて、ゆっくり泣かせてあげて。
けれど、妻の咲喜がブログに影響を受けすぎることが辛いと言い出すのだった。
「ながれゆく」
七夕伝説をモチーフにした、織女と牛飼いの年に一度の逢瀬を描く。
罪を犯した者は年老いて死ぬが、みな歳をとらず死ぬこともない天の川の両岸の世界だ。年老いた紅蓮(ぐれん)は、そんな世に異論を持っていた。
下界では二人の人間が出会い、お互いを損ねずに愛し合い、幸福に生きて死ぬってことに対する明快な筋立てが、まだ完成していないんだ。私たちは不完全な託宣に呪われている。
「ゆれながら」
近未来。性行為を感染源とする疫病蔓延を機に、世界は2種類に分かれた。
体外受精を経て保育器で胎児を育て、重症化を防ぐため性器退化を義務づけた国と、鎖国によって疫病被害を食い止め、これまで通り母親が子供を産む国と。
やがて鎖国が解かれ、8歳のユーリは母と共に国と国に掛けられた橋を渡り、30歳になった今、新しい暮らしにも決めごとにも馴染んでいた。
「他の誰かの肉体から生まれたからといって、その誰かと、言葉を用いずにコミュニケーションをとれるとか、感覚が共有されるとか、そういったことはなかったと思うよ」
「でも、肉のゆりかごから生まれた人たちは、吾委(アイ)を体験したんじゃないの?」
「そんな風に言う人もいるけどね」
しかし橋の向こうで生まれた弟は、人工的に子供を生み出す国のやり方に懐疑的だった。
「ひかるほし」
79歳のタカは、横暴で幼稚な夫、善治に尽くしてきた。仕事ができ功績を残した公務員として勲章をもらった夫は、兄の葬儀の夜、タカに言う。
「いいか、お前は俺より一日でもいいから長く生きろよ。一人で残されたって困るからな」
タカは、苦い気分になる。
困る、とはただシンプルな生活の不便だ。こめられているのは愛情ではなく、べったりと粘る厄介な依存だ。
だが、こうも思う。
一人で生きていく方法が分からない。家の前に見知らぬ車が停まっているとき、予想外の物事にぶつかったとき、タカの胸はハタハタと騒ぎ、まるで錯乱した小鳥が檻の中で暴れているように乱れる。おじいさん、おじいさん、と善治を呼び、対処を求めてしまう。
女だからではなく、自分は人として弱い。夫の模範意識から、決して出られない。けれどタカは、手がつけられなくなる夫の変貌ぶりに、とうとう決意するのだった。
4編ともに、「らしさ」あるいは「こうあるべき」という呪縛にがんじがらめにされた人々が、あがき、苦しみ、生きていくための光を探していく物語だ。
「わたれない」のラストで、暁彦とペンギンさんがウスバキトンボについて話すシーンが好きだった。
繁殖に寄与しない生息地の移動「無効分散」をするウスバキトンボは、寒さに弱いのに群れを成し北上して死滅する。
「無駄死にじゃないかってって思ってたんですよ、俺も。でも、最近ふと思ったんです。こいつらは、環境が変わるのを期待してるんだなって」
「環境?」
「温暖化が進んで暖かい地域が増えたら、毎年毎年こんな集団自殺みたいな渡りをやっているこいつらの生息地は爆発的に増えます。馬鹿げた無茶をしているわけじゃなく、自分たちの生きやすい世界が来るのを信じて飛んでるんだ」
古くからある常識が塗り固めた「らしさ」を求められずに生きていける世のなかが、いつかほんとうにやって来るかも、と思えた。
久しぶりの彩瀬まるは、さらに進化しているように感じました。いや、羽化したかも。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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