本棚に眠っていた20数年前の川上弘美のエッセイ集を手に取ったのは、リハビリにほかならない。
「『ゆっくりさよならをとなえる』って、どんなんだったっけ?」
どんなシチュエーションで、さよならを唱えていたのかすら、思い出せない。
うっすらと、作家が心のなかでそれを唱えたところが好きだったことだけを覚えているのみだ。だが、好きだった。だから、リハビリにはちょうどよい。
リハビリといっても、つき指のことではもちろんない。
ペンキ塗りやなんやかやで、ずっと本を読んでいなかったのである。
気がつくと、どの本もよそよそしくなってしまっていて、読める気がしない。
そういうときには、ミステリの短編集をぱらっと読んでは閉じるを繰り返しているうちに、長編に没頭したくなっていく。だがちょうどよいミステリの短編が、本棚に見つからない。厳選した末に選んだのがこのエッセイ集だった。
という、そっちのリハビリだ。
どんなエッセイ集かというと、大まかにいえば、本と旅と食について。
本については、たとえば「マイナーとうとう」では、つげ義春『無能の人』という漫画から、引用した文を最初に置く。
おれはとうとう石屋になってしまった。ほかにどうするアテもなかったのだ。
この「とうとう」が、「とうとう家を買いました」のような晴れがましいものではなく「とうとう彼と別れてしまいました」のような「マイナー」な意味を持つことから、「マイナーとうとう」を好む人が日本人に多くいて、それは「もののあはれ」とつうじるところがあるんじゃないかと、つながっていく。
旅については、「明石」「明石ふたたび」が印象的だった。
十年前に住んでいたことがある明石。そのエッセイをかいた途端、掲載前に明石の友達から手紙が来たり、違う友人から電話をもらったりして、これは符丁かと思っているうちに仕事で明石に行くことになったと続く。そして、十年前にもあった居酒屋の暖簾をくぐった。
蛸は頭がうまいからねえ。鯛の子は、まあ食べてみてよ。あと、黒めばるを煮ましょうね。注文しなくてもどんどん出てくる。この感じが私は好きだったのだ。親身な感じ。押しつけがましく感じてしまいそうなのだが、そして私はそう感じてしまいがちなタイプなのだが、なぜかそう感じない。
食について、「オクラの夏」は、こう始まる。
何か食べたい、どうしても食べたい、と思うときがある。何を食べたいんだかわからないのだが、からだが確かに何かを要求している。
マーケットに出かけていき、梨やら小魚やら小松菜やらキムチやらめかぶやらを、すわ、これが探し求めていた味のものか、といったんは手に取ってみるのだが、どれも違うのである。
ここでも本が登場する。檀一雄の『檀流クッキング』にある「オクラのおろし和え」がそのどうしても食べたいものであり、夏じゅうそれを食べ続けたという話だ。
「ゆっくりさよならをとなえる」のシチュエーションについては、自分で読んだ方が絶対に楽しいので、紹介しないでおく。
写真にうまく写りませんでしたが「道草したい、日もあるさ。」の下の文は、本文引用です。
「いままでで一番多く足を踏み入れた店は本屋、次がスーパー、三番めは居酒屋だと思う。なんだか彩りに欠ける人生ではある」
☆『地球の歩き方』山梨特派員ブログ、更新しました。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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