『リボルバー』を読み、少しゴッホと親しくなった。
さらに原田マハの描くゴッホが読みたくなり、本棚にあった(夫が先に読んだ)文庫本『たゆたえども沈まず』を手に取った。2017年に、新刊は刊行されている。
この小説では、フィンセント・ファン・ゴッホはもちろんのこと、テオと親しくなった気がした。画商のテオドルス・ファン・ゴッホ。フィンセントの弟だ。
小説は、ふたりのゴッホたちと、交流があったかもしれない日本人画商たちとの物語だ。
スタートは、1962年。テオの息子、兄の名をつけたフィンセントが、命日に伯父が死んだ町を訪ねるシーンから始まる。
折しもそれはわたしが誕生した年で、読み始めた途端、1890年に亡くなったフィンセント・ファン・ゴッホと、今生きる自分がつながったのだった。
小説は、利き腕の画商、林忠正の大学の後輩、加納重吉(シゲ)目線と、テオ目線が交互に繰り返される。林はシゲに言う。パリに来いと。
いつしか船乗りたちは、自分たちの船に、いつもつぶやいているまじないの言葉をプレートに書いて掲げるようになった。
――たゆたえども沈まず。
パリは、いかなる苦境に追い込まれようと、たゆたいこそすれ、決して沈まない。まるでセーヌ川の中心に浮かんだシテ島のように。
水害が多いパリは、しかし、たゆたえとも決して沈まない。それは、林の意思表明のようでもあった。
小説は史実に忠実に、実在した林と架空のシゲを軸に置き、進んでいく。
シゲはいつしかテオの親友となり、誰にも打ち明けていなかった兄との確執までもを話す仲になっていた。
印象派の絵画がさげすまれていた、時代の流れ。
誰にもその価値を認められない、フィンセントの絵。
兄の絵を心の底から崇拝しながらも、売ることができない画商テオ。
史実にもあるフィンセントが大きな影響を受けたという浮世絵をゴッホ兄弟に差し出したのは、小説ではシゲと林だった。
『リボルバー』でもうっすらと感じたことだが、フィンセントとテオのつながりの深さに、驚かされる。
たがいが、まるで自分の一部であるかのように、ふたりは生きていた。
働かず、ただ絵を描き続ける兄フィンセントの生活費をすべて工面する弟テオ。その対価として、売れない絵を弟に送り続けた兄。
フィンセントは、そんな自分を恥じていたからこそ酒浸りになり、心を病んでいく。そしてテオも、兄に対する反撥と愛情の板挟みに、やはり心を病んでいった。
僕は……、いま、兄さんが帰ってきたら……あの苦しい日々がまた繰り返されるだろうと恐れていやしないか。
せっかく手に入れたヨーとの幸せを、めちゃくちゃにされてしまうんじゃないかと。
兄さん。……ああ、でも、僕は……。
兄さんに会いたい。兄さんに会って、話がしたい。
無論、実際のゴッホ兄弟の心の襞に何が挟まれていたのかはわからない。
ラストには、原田マハ的ゴッホの解釈、フィンセント・ファン・ゴッホは何を探し求めていたのか、が描かれていた。
ゴッホ兄弟についてほとんど知識のないわたしは、史実を浴びるように吸収し、彼らの声を持って楽しんで読むことができた。
そして目にしたことのある作品名が出てくるたびに、〈ひまわり〉や〈タンギー爺さん〉だったり〈糸杉〉や〈星月夜〉だったりに、ハッとさせられたのだった。
表紙絵は「星月夜」ニューヨーク近代美術館蔵。
北川景子、好きな女優さんのひとりです。
私もこの本2021年の夏から秋の初めにかけて少しずつ読みました。
夏の朝に少しずつ少しずつ時々ノートにメモしながら読んでいました。
さえさんの読後感想が素晴らしく、そうそう、そうだった!と頷きながら読ませてもらいました。
ゴッホにはテオという弟がいてよかったな~と思いました。
そしてテオの奥さんの温かいまなざしと言葉に感動しました。
星月夜、この頃夜中に目を覚ました時、窓を開けてみると満点の星空に驚きます。
ちっとも涼しくはないのですが、空は星は素晴らしくきれいです。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。
管理人が承認するまで画面には反映されません。