重松清の短編集『また次の春へ』(文春文庫)を、読んだ。
近しい人の突然の死を受け入れられずにいる人たちを描いた、7編の小説集だ。1話目の『トン汁』は、突然の脳溢血で母を失った小学生の男の子とその家族の物語だが、あとの6編は、すべて東日本大震災に絡め描かれている。
3話目の『しおり』は、高校入学直前に幼なじみを失った早苗の物語。
読書になど興味がなさそうな慎也に、分厚い小説を貸したままだった。
以下、本文から。
三月十日の夜、ベッドで眠りに就く前にしおりを本に挟んだとき、慎也は翌日の午後に自分を待っている運命には気づいていない。しおりを本に挟むというのはそういうことだ。一番小さな未来を信じた証が、薄いひとひらのしおりなのだ。
明日、また――。
また、明日――。
あの夜も、数えきれないぐらいたくさんのひとが読みかけの本にしおりを挟んで眠り、それきりになってしまったひともたくさんいるのだろう。
厳冬の、3月はまだ遠い今、本屋で何気なく手にとったというだけで読んだ短編集だった。この時期に、しかしこの本は、わたしの手もとにやってきた。それはたぶん、東日本大震災から5年以上の年月を経て、そして阪神淡路大震災からは22年という時間が流れ、その日、117や311にこだわらず、こうして思い返したときに、そのたびに心を傾けることが大切なんじゃないかと知らせているようだった。
凍った真冬の今、春はずっと遠いけれど、必ずやってくる。
そんな想いで描かれた小説、なのだろうと思った。
『しおり』のなかには、相田みつをの言葉が引用されていました。
「しあわせは いつも自分の こころがきめる」
しあわせは いつも自分の こころがきめる
本当にそうですね。
この時期になると、報道がだんだん増えて来て
あれから時が経ったこと、忘れてはいけないこと
今の暮しが当たり前ではないこと、
いろいろと考えます。
東北ではいまだに自分の家に帰れない人が
いるということ、仮の住まいのままの人。
置き去りにされがちなことをまた思い返す時期ですね。
ぱすさん
しあわせは いつも自分の こころがきめる
ほんと、そうなのに、それを忘れている時間の多いことを思いますね。
神戸の地震の時には、末娘が生まれて3か月だったのでわたしは応援に行けませんでした。夫は一人で半壊の実家の片づけやら物資応援やらをしていました。赤ん坊と過ごす時間のなか遠くにいながら、それでも大きなショックを受けていました。
東北にも何もできないままですが、小説にはそんな人たちの気持ちも綴られています。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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