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はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々

『日の名残り』

考えまいと思っていても、その思考に捉えられたように回帰してしまう。

ままあることである。たとえば、真夜中にふと目覚めたとき。たとえば、直線が続く道を運転していて。またたとえば、キッチンで玉ねぎを刻みながら。

初老の男が初めて長い休暇をとり、気ままなひとりドライブの旅。その先で、遠い昔想いを寄せた女性と会うことになっている。なんてシチュエーションだったら、昔のことを繰り返し思い起こしたとしてもごく自然なことだとも言える。

 

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの小説『日の名残り』(ハヤカワ文庫)は、1956年の7月、ロンドン近郊からコーンウォール地方へ旅する執事、スティーブンスの6日間を描いている。

と言っても、旅先での出来事を描いたものではない。長い休暇をとることのなかった執事という仕事から初めて離れたスティーブンスが、自らの思考のなかに埋没していくモノローグ形式で語られている。旅先で起こった出来事も、遠い過去の出来事も、並列に置いたように過去形であり、旅という非日常のなかで、遠い過去の日常が浮かび上がるのを止められずにいるかのようなイメージだ。

 

旅の終盤には、執事と女中頭という立場でともに働いたミス・ケントン(すでに結婚してミセス・ベンになっている)と会う約束になっている。

スティーブンスは、彼女がじつは今幸せではなく、もとの仕事に戻りたいと言ってくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。

スティーブンスは、執事という仕事に誇りを持っていて「偉大な執事とは何か」を、常に考えてきた。それは、人としての「品格」だとも。

思考の海は、すべてその品格ある執事になるために自分は何を優先し生きてきたのか、ということに終始する。だが途中、その思考はスティーブンスひとりの考えであり、真実とは違っているのかも知れないと気づかされる。

彼の思考のなかでのことではあったが、ミス・ケントンとの会話のやりとりにそれまで読み知っていたスティーブンスと違う面を垣間見ることができるからだ。

「何を馬鹿な……。でたらめもいい加減にしてください。ミス・ケントン」

「あら、でも私は気づいてしまったのですよ。ミスター・スティーブンス。可愛い娘を召使に加えたがらない。なぜでしょう? われらのミスター・スティーブンスは、気が散ることを恐れているのでしょうか? ひょっとしたら、われらのミスター・スティーブンスもやはり生身の人間で、自分を完全に信頼できないということですかしら?」

「呆れたものだ。ミス・ケントン、あなたの言っていることに真実のかけらでも含まれていれば、わたしもこの面白い議論のお相手を務めさせていただくところですが、これでは仕方がありません」

旅の終わりの海辺の町で、桟橋が見えるベンチにたたずむスティーブンス。

そこで読者は確信する。これまで語られてきた彼のモノローグは一方的な思いであり、真実と同じとは限らないのだということを。

これまで目を逸らしてきたことと、彼は向き合う。そして自分の人生のなかに、確かなことなど何ひとつ見いだせないことを知る。涙にくれる彼に、居合わせた老人は言うのだった。

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」

スティーブンスが、いかに真剣に執事の仕事に向き合っていたかを表す、好きな文章がある。人は真剣になればなるほど滑稽となっていくのだと思い知らされるシーンでもある。彼は、新しいアメリカ人の主のためにジョークを学ぼうと生真面目に考えていた。

洒落というものの性格上、思いついてから口にするまでの時間はごくかぎられておりますから、それを言うことで生じるかもしれないさまざまな影響を、事前に検討し評価することなど到底できません。必要な技術を身につけ、豊富な経験を積まないうちは、どういう不穏当な発言をしてしまうか知れたものではありません。もちろん、時間をかけ、練習を積みさえすれば、私はこの分野でも熟達の域に到達できるでしょう。そうなれない理由はありません。しかし、それまでの危険の大きさを考えるなら、少なくとも当面は、ファラディ様の面前でこの義務を遂行することは差し控えるのが賢明と思われます。

 滑稽なほど真剣に人生の夕方を生きることなど、なかなかできることじゃない。わたしにはスティーブンスは特別な、類稀なる人物に思えてしょうがない。だがそれを伝えたとしても、彼の涙をぬぐうことなどできないだろう。誰にもできないのだ。人生の夕方に流す涙をぬぐうことなど。

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土屋政雄訳。解説は、丸谷才一。英国最高の文学賞ブッカー賞受賞作。

 

 

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PROFILE

プロフィール
水月

随筆屋。

Webライター。

1962年東京生まれ。

2000年に山梨県北杜市に移住。

2012年から随筆をかき始める。

妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。



『地球の歩き方』北杜・山梨ブログ特派員

 

*このサイトの文章および写真を、無断で使用することを禁じます。

 

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