神戸で義母の定期検診に付き添った際のこと。
いつものことなのだが、わたしの左腕に義母につかまってもらう形で歩く。
半年に一度の検診を受けるのは大きく近代的な総合病院で、バリアフリーなのはもちろん、通路も広く車椅子の方同士でもすれ違えるようになっている。
わたしと義母はふたり分の幅をとり、ゆっくりとしか歩けないので、普通の速度で歩く人に追い越されていく。それは何も気にならない。
だが、すれ違う相手もゆっくりとしか歩けなかったり、杖だったり、車椅子だったりする。病院なのだから当然である。
そのとき、一瞬だが、自分のなかにこれまで持ったことのない感覚が見え隠れするのを感じ、驚いた。
「こちらが、いたわってもらう側だ」という感覚だ。
何かの拍子に俯瞰した瞬間、避けてもらって感謝する気持ちとともに、避けてもらって当然という気持ちが自分のなかに見えたのだ。
付き添いのわたしでさえ陥ってしまう感覚なのだと思うと、実際身体のどこかに病気や故障を抱える人やお年寄りなどは、日々そういう気持ちを抱えつつ、それでもほかの誰かをいたわり暮らしているのだとわかる。
歳をとれば、無意識下に、いたわってもらいたい、いたわってもらうべきだという欲求が芽生えて当たり前なのだ。
自分のなかに見えた感覚をふたたび俯瞰し、80歳をとうに過ぎた両親や義父母の気持ちを思った。
ウォーキングで見る風景のなかで、いちばん多く目にするのは野焼きの後の田んぼの畦から出てきた若い緑色したカンゾウの芽です。
小さな猫柳の木もあります。
よもぎの葉も、アスファルトのあいだからたくさん芽を出して。
玄関の石段に集めたタチツボスミレも、葉を広げてきました。
これは、ホタルブクロの芽ですね。
隣りの林に広がっているのは、ホソバウンランの芽です。ウォーキングできる幸せを噛みしめて。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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