故人には、子どもが5人いる。
喪主は、長男、春寿(はるひさ)。
あとは上から吉美、多恵、保雄、一日出(かずひで)。
孫は、10人。
春寿の息子、崇志、正仁、寛。吉美の娘、紗重。多恵の息子、美之、高校生の知花。保雄の子で高校生の英太と中学生の陽子。一日出の子で中学生の森夜(しんや)と海朝(みあ)。
そして曾孫が3人。それぞれの伴侶もいたりいなかったりする。欠席者もいる。
かき出してみたのは自分で把握するためで、混沌としたまま読み終えた。
そんな大人数での通夜の一夜、「死んでいない者」それぞれの考えていること、思うことが、ふるまいとともに描かれた小説だ。
たとえば27歳の美之は、仕事を持たず故人の家の敷地内のプレハブに居候をしていた。
引きこもりがちではあるにしても、卑屈であるわけでも、塞ぎがちであるわけでも、何かに熱中しているわけでもなく、むしろ平然としていて、スーパーに買い物に行ったり、何か凝った料理を作って祖父と一緒に食べたりもしているらしい。そんな話を聞いて、いったい何を考えているのかわからない、などと言うのは自分が自分で何も考えようとしていないからだ。あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な、新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいのにと思ってるんだ、と知花はさっきプレハブで一緒に酒を飲んでいる時に言っていて、立派なことを言う妹だ、と美之は思った。
人は「典型的な」何かに当てはめることで安心する。けれど、ひとくくりになど、たぶんできない。
またたとえば春寿の息子、寛は、ふたりの子どもを置いたまま行方不明中。葬式にも来なかった。親戚たちの言い草はこうだ。
あれはアル中だよ。アル中どころか、薬中だよ。目つきがおかしいもの。見ればわかるよ。浪費家で、金がないのに高い買い物ばかりする。それもサングラスとか指輪とかネックレスみたいな装飾品や、エレキギター、室内用のトレーニング器具や高性能の掃除機など不要不急のものばかりだ。
しかし、祖父春寿の家で暮らす息子たちは、優しいいい父親だったと思っている。
その寛の、数年前に祖母の葬式に向かう途中、電車の車窓から見た風景に考えを馳せるシーンは印象的だった。
さっき、川が現れた一瞬、心がパッと開けるような、不安や心配が取り払われたような感じになった。また川が現れないかと窓の外を見て、もう一度川が見えたら、その瞬間の気持ちを絶対に忘れないようにして、酒もやめて、ちゃんと生活を送る。仕事もする。家族を幸せにする。そう寛は考えながら、窓の外の街の景色を見続けた。
だが川は、二度とは現れなかった。そんな寛の思いは、もちろん誰も知らない。
ひとりひとりの考えていることも、ほんとうの姿も、たぶん誰も知らない。
高校生の知花は、祖父が死んだ日に父と交わしたばかりの会話を思い出す。夕飯に作ったペペロンチーノについての会話だ。
そのどうでもいい会話が、祖父が死んだ日にたしかに交わされたのだ、と知花はその晩お風呂につかりながら思った。たしかにあったどうでもいいことは、この世界にどのように残りうるのか。それともそのどうでもよさゆえに忘れられ、いつかは消えてなくなってしまうのか。
当てはめられないもの。誰も知らないこと。どうでもよい些細なこと。
そんなたしかにあったのだがたしかな形を持たぬものが日々あわあわと消えていく儚さを、初めて胸に留めた読書体験だった。
表紙の絵、好きだな。装画・猪熊弦一郎『顔80』。
解説の津村記久子は、併録掌編『夜曲』の
「同じようでいて同じ会話は二度とない」
という言葉に、作品全体の主題が表れているように思えるとかいている。
第154回芥川賞受賞作。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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