森見登美彦の新刊『夜行』(小学館)を、読んだ。
読み始めてすぐ、やわらかい文章に、心のなかの波が凪いでいくのを感じた。
構成は五夜に分かれていて、語り手が一人ずつ。十年前、大学生だった彼らは英会話スクールの仲間で、一緒に鞍馬の火祭を見物に出かけた。その夜、仲間の一人が姿を消した。長谷川さんという女性だ。
十年後に集まった彼らは、一様に同じ銅版画家の連作「夜行」を観たことがあった。連作には地名がついていた。尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡、鞍馬。5人は、それぞれその地であった不思議な体験を語り始める。
『尾道』
頼りになる先輩、中井さんが尾道を訪れたのは、家を出た妻を連れ戻すためだった。しかしそこには妻とうり二つの違う女性がいるのだった。
『奥飛騨』
甘え上手とも言われる後輩、武田君は、友人とその恋人と彼女の妹と4人で奥飛騨の温泉に行った。ドライブの途中で拾った女性は、未来が見えると言う。彼女は、4人のうちの2人に死相が出ていると告げ、車を降りた。
『津軽』
後輩女性の藤村さんは、鉄道好きの夫とその後輩、児島と、夜行列車に乗り津軽へ旅した。だが、車窓から燃える家を目にしてから、児島の様子がおかしくなる。そして藤村さんは思い出す。あの家に火をつけたのは誰だったのか。
以下『津軽』から。
「児島君はどうして姿を消したの」
夫はふいを突かれたような顔をしました。
「それは別の問題だろう」
「それならあの遺跡で私が見たのは何だったの。児島君と佳奈ちゃんは手をつないでた。もしあの家が佳奈ちゃんの家だったとしたら、児島君は佳奈ちゃんと一緒にいるんだわ」
夫の顔は次第に青ざめて歪んでいきました。
「おい、何が言いたいんだ。まるで……」
「あの家で児島君が消えたあと、誰かが窓から覗いてた。あなた、その人を見たんでしょう」
「さっきも言ったろ。よく見えなかったって」
「嘘を言わないで」
「嘘じゃない」
「嘘よ。それはどんな人だったの?」
「でも……でも、あり得ない。あり得ないんだ」
夫は苦し気に言いました。
「窓から覗いていたのは、君だった」
そのとき背後で箱の崩れるような音がした。
『天竜峡』
最年長の男性、田辺さんは、伯母夫婦の家に招かれた帰りに天竜峡を通った。そこで、中年の坊主と女子高生という奇妙な二人連れと車中をともに過ごすことになる。田辺さんは「夜行」を描いた銅版画家、岸田の友人であり、岸田の昼夜逆転の生活をしてまで「夜行」に打ち込んでいた様も併せて語られる。
『鞍馬』
主人公、大橋が現在進行形で語る鞍馬での夜。長谷川さんは、どこへ行ったのか。「夜行」という連作に、何があるのか。
ストーリーもおもしろかったが、何より文章に、言葉に魅かれた。
「僕は旅そのものというよりは、やっぱり旅仲間に興味を惹かれます。一緒に旅をするというのは、みんなで一つの『密室』に閉じ込められるようなものだから」
その淋しさは、夫の言う旅情とは違うような気もしたのです。それはもっと生々しく感じられる淋しさでした。小学校からの長い道のりをひとりで辿っていくとき、貯水池の土手に長く伸びた影に感じていたような感覚です。
めったに人が降りることのない無人駅がいくつも続く区間だ。あと一時間もしないうちに俺たちは夜に追いつかれるだろう。
文章に、体温を感じた。触れたときにやわらかく跳ね返る弾力を、人と同じ60%ほどの湿り気を感じた。会話が途切れたときなどにふと訪れるの静寂を、それらすべてがいつ消えてしまってもおかしくない危うさを、読みながら感じていた。
いつまでも、読み終わりたくなかった。
夜の風景。たたずむ少女、その向こうには夜行列車が走っています。
少女は、消えてしまった長谷川さんでしょうか。カバーを外すと車窓には猫が。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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