小川洋子の『最果てアーケード』(講談社文庫)のなかに出てくるドアノブ専門店が好きだ。そこには主人公がよく入り込んでいた「世界の窪み」がある。
両側の壁に設置された板一面に取り付けられたドアノブは、すべて実際に回してみることができ、そのうちの一つは、人一人がどうにかくぐれるほどの扉があって、主人公〈私〉は、くたびれた時や途方に暮れた時にそのドアノブを回した。
そこは決して部屋ではなく、納戸でもなく、当然椅子や電灯や絨毯もない、ただのドアノブのためだけに存在する暗がりだった。世界の窪みのようなアーケードに隠された、もう一つの窪みだった。その床に座り込み、背中を丸め、両膝の間に顔を埋めていると、すっぽり正しい位置に納まったという具合に体が楽になった。町を歩いて頼りなく薄まった自分の中身が、再びギュッと凝縮されてゆくようだった。
扉の向こうには、部屋なり、棚なり、あるいは外の風景なり、何かしら空間が広がっているのが当たり前だ。だからこそ、向こう側のない板にとりつけられただけのドアノブにも、なにか切なさを感じて魅かれたけれど、ドアノブを展示するためだけに作られた空間のその奇妙さと、〈私〉だけの個人的な、孤独なとも言えるあり得てないようなスペースにとても魅かれた。
ドアを開けるとき、普通は何も考えない。
そのドアの向こうがいつもの風景である場合はもちろん、初めて開けるドアであっても想定するものがあり、たいていの場合その想定内である。
けれど、もしも扉の向こうに、想定外の風景が広がっている可能性があり、たとえばふとその可能性に気づいた人だけが踏み込める世界だったとしたら?
ドアノブ専門店は、そんな扉の向こう側にあるかも知れない。
そして、その扉をくぐれば、『最果てアーケード』の商店街、一種類のドーナツしか揚げない「輪っか屋」や、姉妹が営む使用済みの絵葉書などを扱う「紙店」、亡くした夫を思い続ける妻が営む「勲章店」、死んだ動物の目で人形や剥製の目を作る「義眼屋」にも通じているのだろう。
いつか行けるんじゃないかなと、わたしは思っている。扉は、開くためにあるものなのだから。そこに行きたいと思い続ければ、きっと開くはずだ。
我が家の玄関です。ドアノブはなく、木の枝の取っ手がついています。
設計士さんが山で拾ったという枝(!)を、取っ手につけてもらいました。
こだわって友人の鉄刻屋さんに作ってもらったのは、食器棚の取っ手。
カウンター下の抽斗や棚にも、大き目のものをつけてもらいました。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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