中2の秋に自殺したフジシュンの遺書には、3つ、かかれていた。
親友になってくれてありがとう。ユウちゃんの幸せな人生を祈っています。
小説の主人公、真田裕へ宛てた言葉がひとつ。
永遠にゆるさない。呪ってやる。地獄に落ちろ。
いじめの首謀者ふたり三島と根本へ宛てた言葉。
そして、片思いの相手、中川小百合へ宛てた言葉でしめくられていた。
迷惑をおかけして、ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。幸せになってください。
彼が庭の柿の木で首を吊ったのは、小百合の誕生日だった。
裕はその遺書の内容に驚きを隠せなかった。小学校からの幼馴染みではあったが、中学に上がってからは親しくしていた覚えがなかったからだ。
なぜ、フジシュンは「親友」とかいたのか。
「親友だったら……なんで、助けなかった……」
葬儀でフジシュンの父親(裕は作中ずっと「あのひと」と呼ぶ)に責められるも、混乱したままだった。
雑誌の男性辛口記者、田原は言う。
「何もしなかった罪っていうのは、法律にはない」だから、かくのだと。
犯人を捕まえるのは警察の仕事で、それをさばくために裁判所がある。でも、ただ見ていただけのひとは--。
「いかに卑怯な奴なのか、それがどんなひどいことなのか、俺たちが書かないと、誰にも助けてもらえずに死んだ奴が浮かばれないだろ」
小百合の心に寄り添うようにその後取材を続けていく女性記者、本多は言う。
人を責める言葉には二種類ある、と。
「ナイフの言葉」と「十字架の言葉」だ。
「ナイフで刺されたときにいちばん痛いのは、刺された瞬間なの」
十字架は違う。
「十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いているかぎり、ってことは、生きてるかぎり、その言葉を背負い続けなきゃいけないわけ」
あのひとは、裕にナイフの言葉を向けることはなかった。しかし、許すこともなかった。
裕は、フジシュンの母親に請われ、小百合とふたり毎月彼の家を訪ねるが、「自分は親友などではない」と言うこともできず、苦しみ続けていく。
2009年に書き下ろしで出版され、文庫化された「吉川英治文学賞」受賞作です。
「核」となった実話があると、文庫版あとがきにありました。
ずっと積読になっていたのに読もうという気になったのは、そのあとがきを先に読んだからでした。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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