父が逝った。92歳だった。
最期は癌が身体じゅうに転移していたが、長く苦しむことなく静かに息をひきとった。
今年の年明けには実家で集い、父の白菜漬けを食べたのだから、急だったとも言えるが、父は粛々と準備していた。
80歳まで個人タクシーのハンドルを握り、都営住宅で慎ましく暮らすなかでコツコツ貯めたそう多くないが財産分与の話は、数年前から聞かされていて、わたし、弟、妹に平等に渡るように、大学ノートに銀行口座から生命保険の類まで細かく記されている。
「贈与税もとられないし、そうさせてくれ」
妹には生前贈与し、孫の大学入学費用を出せたと喜んでいた。
痛みがひどくなってからもお金がかかるからと緩和ケア病棟へ入院することを拒む父に、お金のことはいいからと懇願したが、少しでも多く残したいんだと言ってきかなかった。
遺影を撮ったと聞かされたのは、2年ほど前だっただろうか。引き伸ばした写真と黒い額が、箪笥の上に用意されていた。遺影は、穏やかに微笑んでいる。
「葬儀は家族葬で、無宗教で頼むよ」
大学ノートには、その費用も明確に記載されていた。
5年ほど前には、墓を母とのふたり分購入し、10年分の費用を納めたそうだ。
意識がなくなるまえには、ひとりひとりじっくりと話ができた。残された者への心残りもとり払い逝った父。そのすべてが、みなを気づかう心、思いやりだったように思える。
「日曜日に逝く親は、子供の都合を考えている子供思いの親だって言いますね」
ある人が、そう言っていた。
そんな父を見送り、エンディングノートを作ろうと決めた。
実家にあった小学生の頃のわたしと弟です。ペットのトットと(笑)昭和レトロなワンピースを着ていますね。
こんばんは。
お父様 亡くなってしまわれたのですね。
すべての準備をされて日曜日に天国へいったお父様はご立派です。
さえさんの御写真、私も似たようなものがあります。
レトロな香りのするワンピース、わたしのは水色だったのです。
(でもさえさんの方がずっとお若いから、私のはもっとレトロです)
>80歳まで個人タクシーのハンドルを握り
私にも親戚のようなお付き合いをしていた個人タクシーの運転手さんが2人います。
長崎と京都に、でももうお二人とも亡くなりました。
お父様の想い出をお持ちの方がたくさんいらっしゃるだろうな~と思ってこの記事を拝見しました。
92歳まで頑張ったお父様におおきな拍手を贈りたいと思います。
さえさん
お父様、逝かれたのですね。
急でいらしたのですね。後の事をちゃんと考えられて、なるべくご家族に迷惑のかからないように。
親って、ありがたいものですね。
お忙しい中、コメントをいただきどうもありがとうございました。
お母さまとゆっくり過ごされた時期、そういう時期だったのですね。そうとは知らずに、お返事をさせていただきました。今、お邪魔して驚いた次第です。
どうか、お疲れが出ませんように。
お父様のご冥福をお祈りいたします。
お父様のご家族への配慮がとても伝わり
どのように素晴らしい方だったのかがわかりました。
私事ですが、私の父も今年3月に突然亡くなりました。
ですので、よそさまのこととは思えない気持ちで読ませていただきました。
私の父は死は、人生の卒業だからと言い遺しました。
「だから悲しまないで大いに祝ってくれと…」
そんなこと言われても笑えませんけどね。
愛する家族を亡くした悲しみは何年たっても癒せるものではないと思いますが
しばらくは手続きなど、忙しさに翻弄されると思いますので
お体を大切になさってください。
あと、数時間で新たな年ですね。
さえさんと『地球の歩き方』特派員を通して親しくなれましたこと嬉しく思っています。
来年もよろしくお願いいたしますね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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