72年目にあたる終戦記念日のきのう、芝居を観た。山梨平和ミュージアムが企画した『峠の少女』は、終戦後、朝鮮に残された日本人が母国へ帰るために、あがき苦しみながらも希望を持ち続ける姿を描いたものだ。
終戦までは日本の植民地だった朝鮮には、約20万人の日本人が暮らしていた。
敗戦し、だがその後もソ連軍は容赦なく進攻を続けた。
男たちは軍隊に駆り出され、女性、子ども、年老いた人たちは、アメリカ軍が救援してくれる38度線を目指して歩き続ける。歩く道には、ソ連軍の暴行で殺された人、病気や飢えで亡くなった人の死体が転がり、水も食料もなく、いつ捕まるかもわからないなかで、ただ歩くしかなかった。
主人公のみちえは、10歳くらいだろうか。両親をソ連軍に殺され、年老いた祖母と叔母と3人で歩き続けていた。
祖母は、みちえは生きて山梨に帰って、神楽の巫女舞を踊って欲しいと、巫女舞を踊れば祈りが通じみんなが幸せになれると言い残し、みちえが舞う姿を見て、力尽き祈りながら死んでいく。
水を探しに行った叔母は行方不明になり、みちえは、怪我をした兵隊や赤ん坊を餓死させてしまいずっと抱いたままでいる若い母親に出会う。
死が常に目の前にある状態。道々の死体。家族の死。そして自らの死も。
戻ってきた叔母は、暴行を受けたのだろうか。疲れ果てていて、みちえに「いいところへ行こう」と心中を持ちかけた。
だがみちえは、山梨に帰ろうと祖母の伝言を伝える。
「あの峠を超えたら、38度線。行けるところまで、行こう」
叔母は、みちえとともに歩き出すのだった。
赤ん坊を亡くした母親が歌う歌が、美しく印象的だった。悲しみのあまり狂ってしまったのだろう。戦争のなかにいると死がひどく身近なものになり、死というものに対して麻痺していく人も多いのだと、戦争を描いた小説や映画などで感じていた。だがそれは麻痺していいものではない。狂ってしまう人の方が私には漠然とだが理解できるような気がした。
観劇後、質疑応答でこんな話も聞いた。
38度線を超えて待っていたのはアメリカ軍だが、怪我の手当て、衣服や食料の手配など、人としてできうる限りのことしてくれたそうだ。
戦争をしていたって、敵が極悪人だというわけではない。戦争というものが悪を産む根源なのだと、それを聞きあらためて知った気がする。
戦争というものは、人を人ではないものへと変えていく。そんな戦争を、もう二度と起こしてはならない。そう強く思った。
脚本・演出は、エッセイサークルでお世話になっている水木亮先生です。先生は3歳のときにご両親と満州から引き上げてきたそうです。
お盆休み、ふたたび蓮の花を観に行きました。花はほとんどおしまい。
でも雨上がりの朝だったので、雨粒がとってもきれいでした。
お疲れ様でした。水木先生は幼い頃にご両親を無くされ、とてもご苦労されたようです。終戦記念日になると毎年、私達もいろいろ考えさせられますね。なかなか都合がつかず、水木先生関連のイベントも行けませんでしたが、これからは出来るだけ出かけられるといいなと思います。とりあえずの今の穏やかな生活に感謝したいと思います。
蓮池も寂しくなりましたね。いただきものの蓮は、今年は花が咲きませんでした。鉢のなかはメダカの卵がふ化して密集してます。四角豆の実がなり始めました。
悠里さん
わたしも水木先生の創ったお芝居、初めてでした。
終戦記念日、ほんといろいろ考えさせられますね。
戦争を起こさないためにできること、していかなくてはなりませんね。
蓮、それでもまだいくつか蕾がありました。
来年は咲くといいですね。生まれたてのメダカ、可愛いでしょうね。
四角豆って初めて聞きました。沖縄とかで採れる食べられる豆なんですね。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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