英語の「AX(アックス)」とは、斧(おの)のことらしい。
伊坂幸太郎の殺し屋シリーズ『グラスホッパー』『マリアビートル』に続く新刊が出た。『AX』の主役「兜(かぶと)」は、一流の殺し屋だ。類稀なる身体能力で素早く相手の息の根を止める。十代の頃からやってきた稼業だが、しかし結婚し息子が生まれてから足を洗いたいと思い続けることとなった。その無敵の殺し屋がもっとも恐れているのは、妻。兜は、一流の恐妻家でもあったのだ。
朝起きて、妻に顔を合わせると同時に、「今日もすみませんでした」と謝るくらいでないと真の恐妻家とは言えない。以前、どこかの落語家が喋っているのを聞いたことがある。私からすればそれは、笑い話どころか非常に共感しうる悲話に近かった。
帯には「カマキリの斧を甘く見てるなよ」とあり、そのカマキリに「恐妻家」とルビが振ってあり、本文にも「蟷螂(とうろう、すなわちカマキリ)の斧」(はかない抵抗のたとえ)という言葉が出てくることから、メスに食べられるのを恐れるオスのカマキリをイメージしているのだろう。
とてつもなく強い奴が、妻には頭が上がらない。それだけでもおもしろいのだが、兜はそれ以上に子煩悩であり、心から妻を愛し、家族を何より大切に思っていた。彼は人の感情をうまく理解できない。不器用に、妻に脅えながらしか愛することができなかったのも、若い頃から人を殺し続けたが故かも知れない。
連作短編集の形をとった小説集。サブタイトルはすべて英語だ。
『AX』
「あなたには、この手術をおすすめします」
兜が通う内科診療所の医者は、殺しの手配を請け負う仲介者だ。彼のいう「手術」は殺し「患者」は殺し屋「悪性」は相手がプロの場合を意味する。
表向きは文房具メーカーに勤める会社員である兜は、家族に内緒の裏稼業から身を引きたいが、医者はそれには金が必要であり、まだまだ続けなくてはならないという。妻が怖い兜は、息子、克己の高校の進路相談に行く約束の日に殺しの依頼が入ってしまい……。
『BEE』
「あなたを手術しようとしている人間がいるようです」
毒針を使うスズメバチと呼ばれる殺し屋に狙われているらしい。折しも庭に蜂の巣ができたと妻から連絡がある。自分で退治したりせず頼むよう妻に言われるが、業者はそろってお盆休み。妻はキャンプに行く日までに駆除してという。
「『絶対に自分ではやらないで』という人物が一方では、『この日までにどうにかして』と言ってくる。いったいどうしろって言うんだ」
『Crayon』
「少し、目的の異なる手術です」
身がわりの死体を用意しろとの依頼だ。
スポーツジムでボルダリングをする兜に、初めて友達ができた。松田とは恐妻家同士だったのだ。だが初めて連れ立って飲みに行く途中、事件が起こった。友達に悟られぬよう、いちゃもんをつけてきたチンピラの指を折る兜がかっこいい。
『EXIT』
「これをやり遂げれば、引退できます」
医者がつきつけてきたカルテとは。
あたかも選択肢は二つしかない、と思わせる詐欺のやり方について、克己は説明した。「これとこれのどちらにしますか」「これができないのなら、こうするしかないですよ」とどちらかを選ぶほかない、と相手を追い詰めるのだという。
『FINE』
「お父さんは患者としていらしていましたよ」
兜の死後、十年が経っていた。診察券を手に訪ねてきた克己に医者は言った。
結婚し父親となった克己は、父、兜の部屋で見つけた鍵を手掛かりに、父の死について調べ始める。医者は、それを阻止すべく乗り出す。兜の死の真相は。
「お父さんは」医者は能面の表情のままだった。
「怖がっていましたよ」
「怖がって?」
「死ぬことを」と言いそれから今度は嘲るような息を鼻から出した。
ああ、と僕は声を上げた。これでこの医師の言うことを真に受けなくて済む、と思った。「嘘をつかないでください」
「死は恐ろしいものですよ。何もかも消えます。お父さんも例外ではありませんよ」
「そんなことはないですよ」僕はこれだけは明言できた。
「父がこの世で一番怖いのは」
「何ですか」
「母ですから」
『グラスホッパー』では、罪の意識を持たない殺し屋「蝉」や殺した人の亡霊にさいなまれる「鯨」が、『マリアビートル』では、中学生のサイコパス「王子」が登場したが、『AX』は、殺し屋稼業にどっぷり浸かり感情を持たなかった「兜」が、家族ができたことで、殺しを辞めようとあがいていく。
蟷螂の斧は、果たして大きな敵に届くのか。
妻の口癖が、好きだった。
「やれるだけのことはやりなさい。それで駄目ならしょうがないんだから」
「新たなエンタメの可能性を切り開く、娯楽小説の最高峰!」帯より。
目次や章ごとに出てくるカマキリの絵が、お洒落です。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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