毎週金曜の手話教室。少し早く家を出て、教室への通り道の「信玄堤公園」に立ち寄った。桜の名所である。
「桜」はいわずと知れた春の季語。俳句の世界では「花」といえば桜を指す。これも代表的な季語である。
ほかにも、その年初めて咲いた「初桜」、彼岸の頃に咲く「彼岸桜」、「枝垂桜(しだれざくら)」、「山桜」、「八重桜」、桜の盛りを過ぎたころに咲く「遅桜」、春の終わりになっても咲いていれば「残花」、散り際の美しさを表す「落花」、花びらが散ったあと赤いガクや蘂が落ちれば「桜蘂(しべ)降る」など、季語の多さに驚く。夏の季語に、初夏になってまだ咲いている桜「余花」もある。
傍題となれば、もう数え切れない。
晩年の父母あかつきの山ざくら 飯田龍太
先日、山廬で見つけた『飯田龍太自選自解句集』にあった句だ。
父の蛇笏73歳のときに詠んだ句で、大病を患った父がおおかた回復し平穏な日々を過ごしていたという。
晩年とは言っても、どこか明るい気分が漂っていた。
その年は、龍太にとって子を亡くして3年目の彼岸でもあり、石屋に頼んで小さな墓を建てた、とある。
建ておわった小さな墓を撫でると、もうほのかな日の温みがあった。
彼岸桜が散り、桃も花盛りが過ぎると、山裾に白々と山ざくらの花が浮かぶ。
17音の俳句からは読みとれない心持ちが、感情が、静かにしたためられていた。
花の寺少女の笑ひ二間(ふたま)超ゆ
同じ本の同じページに載っていた句。
子供のころ、祖母につれられてよく寺参りをしたものだが、読経する坊さんのうしろにいつまでも坐らされているのにはほとほと閉口した。そんな時、裏庭に干してある赤い蒲団が見えたり、襖のむこうの部屋の炬燵から赤ん坊の泣き声がきこえて来たり――。坊さんが普通の人間と同じ生活を片方に抱えているのが、何とも解せない気持がしたものだ。
そんな思いも片隅にありながら、年を経て同じ寺を訪ねると、少女の笑い声がカナリアのように気持ちよく聞こえてきた。晩年の~と同じ春に詠まれた句だそうだ。
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
芭蕉の句の通り、毎年咲く桜は、様々なことを思い出させるものなのだろう。

「信玄堤公園」の桜です。平日金曜の朝9時半。駐車場は、1台分しか空いていませんでした。花見客いっぱい。

まさに見頃。

ランドセル姿で撮影する、たぶん小学一年生の親子の姿もありました。

桜は、青空に映えますね。

ほんの10分ほどのお花見でしたが、リフレッシュしました。

まだ肌寒く、コートを着ていってよかった。

ちらりと見えた富士山は、真っ白でした。
美しい桜の風景に拍手!
一足早くお花見をさせていただきました。
子を亡くした親の悲しみはどんな悲しみよりも深いでしょうね。
夫のいとこが3年ほど前急に倒れて帰らぬ人となりました。
銀行を退職し、あと5年嘱託職員として働いていこうとしていた途中の出来事でした。
叔母は今も悲しみ続けています。
陽を受けて温かくなった墓石をなでる龍太の気持ち、伝わってきますね。
富士山が真っ白できれいです。

随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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