小川洋子の『刺繡する少女』(角川文庫)は、狂気と背中合わせにある世界を描く、10編からなる短編集である。
『刺繡する少女』
〈僕〉は、終末期を迎えた母が入院するホスピスで、12歳の夏をともに過ごした少女と再会する。彼女は、そのときと変わらず刺繡をしていた。
子どもの頃の記憶を、彼女と共有するまでの描写がとても好きだった。
不意に眠りを覚まされた記憶の小人が、きちんと意識を取り戻すまでには、しばらく時間が必要なのだ。僕たちはたっぷりと沈黙を味わいながら、小人にまとわりついた時間のおりが、流れ去ってゆくのを待った。
『アリア』
〈僕〉は、毎年2月12日に決まって叔母を訪ねる。歳をとった叔母は、しかし声だけは変わらない。彼女は、夫に首を絞められ喉がつぶれた元オペラ歌手だ。
その声の描写が、またいい。
どんなささいな一言でも、身体の底からわき上がってくる感触があり、柔らかさと張りの両方を合わせ持ち、時には宙の高いところへ突き抜け、時には喉の奥の隠れた洞窟で共鳴する。そんな声だ。
『キリンの解剖』
堕胎手術をしてから間もなくジョギングを始めた〈わたし〉は、どこまでもどこまでも苦しくなりたくてただ走った。
「倒れるまで走るなんて、愚かですね」
ひとりごとのようにわたしは言った。
「時には、そういうことだって、起こりますよ」
守衛さんは注意深く口を開いた。
「私はもう、四十年近くこの仕事をしておりますが、正門の前では、実に多くの出来事が発生いたしました」
「四十年もですか?」
「はい、さようです。暴走トラックが突っ込んで、運転手がぺちゃんこになったり、ノイローゼの若い従業員が焼身自殺をしたり、捨て子の赤ちゃんが置かれていたり、いろいろでございます」
『トランジット』
トランジットの待ち時間、〈わたし〉は木馬博物館に勤める男性と出会う。
「木馬を見るたび、わたしはいつも考えるんです。この上に乗った、数えきれない、見ず知らずの人についてね。背中のくぼみに手のひらをのせ、ほんのひとときここに身体をあずけ、また去っていった、もう二度と戻ることのない人々に、思いをはせるのです」
『第三火曜日の発作』
喘息で療養中の〈わたし〉は、年表を見るのが好きだ。人生のあらゆる出来事が、どれもたいしたことがないように思えてくるからだ。
年表の中では人は、実にやすやすと落第したり、失恋したり、病気になったり、旅行をしたり、結婚したりした。母親の死も、子供の死も、そして本人の死も、みんな一行で書いていあった。
狂気は、傷ついた人の心と、対になっているのかも知れない。
蜃気楼が揺らめくようにゆらゆらと、そんなことを考えてしまう小説集だった。
表紙の絵は酒井駒子、解説は詩人の飯島耕一です。20年以上前に出版された、小説集でした。
随筆屋。
Webライター。
1962年東京生まれ。
2000年に山梨県北杜市に移住。
2012年から随筆をかき始める。
妻であり、母であり、主婦であること、ひとりの人であることを大切にし、毎日のなかにある些細な出来事に、様々な方向から光をあて、言葉を紡いでいきたいと思っています。
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